彼にはそよ風が良く似合う。
黒曜石のような瞳と相対するアッシュグレーの髪色は、東洋と西洋の血の混ざり合いを感じさせる。学校で彼を知らない人は居ないだろう。美しく聡明で華やかな彼は、いつも人に囲まれている。
彼を観察するようになってから1か月。きっかけは些細なことだ。彼が何かジョークを言って、はじけるように周囲で皆が笑っている時、彼は微笑みをスーッと消して彫刻のように固くなり、やがて斜め下を向いた。どうでもいい、そんな表情をして。まるで光の中に影が生まれたような不思議な瞬間で、目が離せなかった。
以来、私は彼の観察日記を手帖に書き留めるようになった。すれ違う瞬間、地中海に吹くそよ風のような、ラグジュアリーで爽やかなシトラスの香りがすること。皆に優しいが、特定の親しい友人は居ないこと。スポーツ万能なのに、サークルに入っていないこと。迎えの車で帰るため、彼の自宅を誰も知らないこと…など。
私はいつも早く学校へ行く。誰もいない教室で窓を開けるのが日課だ。
「早いね。」
突然の声に驚いて振り返ると、彼が立っていた。
「びっくりした。おはよう。」
「君さ、これ落としたでしょ。」
彼は胸ポケットから小さな手帖を取り出した。私は顔面蒼白になった。あれは私の手帖、彼の観察日記だ。私は平静を装って答えた。
「ありがとう。」
彼の手から奪い取って廊下へ逃げようとしたが、その手は高く掲げられた。届かない。
「よ、読んでないよね?」
「読んだから、誰の手帖か分かったんだよ。返して欲しかったら、放課後一人で海岸まで来なよ。」
抗議しようとした瞬間、クラスメイトが扉からなだれ込み諦めた。
肌が1秒ごとジリジリと焼ける。白い砂浜の上に座り、彼を待った。どことなく漂うのは媚薬の香料。トロピカルフラワーとパピルスウッド。センシュアルでエキゾティックな大地へ運んでくれそうな香り。
突如、バサッと目の前に手帖が放り投げられ、無表情の彼が立っていた。学校とは別人のよう。
「約束通り返すよ。」
そう言って背を向ける。
「怒ってないの?」
しばらく波の音だけが、静かに流れた。
やがて振り返った彼は、いつも学校で見る優しい笑顔。心を閉じた証拠だ。
「まさか君が書いたとはね!最後のページにあった名前を見て驚いたよ。君はいつも誰ともつるまない、孤高の美人さんだから。」
「ごめんなさい。気持ち悪いことして。でも不思議だったの。久条君は沢山の人に愛されているけど、でも本当はそんなのどうでもいいんじゃないかなって。あなたが本当は何を考えているか、私はそれが知りたかったの。」
不透明な沈黙が続いた。
「君に話す筋合いはないから。」
ザッと砂の音がして彼は去った。嫌われた。当たり前か。以降、彼と一切口をきくことも無く、3年になりクラスも離れた。
1年後のある朝、朝食をとりながら母はこう言った。
「お母さんね、以前からお付き合いしている方と再婚しようと思うの。あちらも奥様を亡くされていて、互いに子連れ再婚ね。明日の土曜、向こうのお宅に行くことになったけど、いいかな?」
父が事故死してからもう10年以上経つ。この2年ほど、母が黒い車で送られ帰宅する日は上機嫌だったこともわかってる。幸せになってほしい。勿論大丈夫だよと答えた。
翌朝、私たちは迎えに来た車に乗りこんだ。海岸沿いを走り、やがて大きな門を通過し森の中を進む。どうやらかなりお金持ちの家っぽい。価値観も違うだろうし、うまくやっていけるかな…。
贅沢な客間は、スモーキーな紅茶と青くまろやかなフィグ、そしてマグノリアの力強い花の香りに満ちていた。新しい父は海洋貿易の事業を行っているそうだ。
「雄大さん、今日はお招きありがとう。」
母の声がして振り向くと、品のいい紳士が立っていた。
「初めまして。今日は二人で来てくれてありがとう。私たちは子供たちが心地よく生活していけることを大切にしたいと思っている。だから気になることがあれば、いつでも相談してほしい。息子を紹介しよう。尊(タケル)だ。」
ドアから入ってきたのは、久条君だった。私は息をするのも忘れて口をあけていた。え?ここは?久条君の家?
「黙っていてごめん。父が君のお母様とお付き合いしていること、僕は前から知ってたんだ。父に言い寄る女性は多いから、失礼ながら母上がどんな方なのか調べた。美しく経験豊かで、父の内面も理解してくれていると感じたからオレは再婚をOKした。そして同時に、娘がクラスメイトの君であることも知ったんだ。君はいつもオレに近づこうとしなかったから、興味がないと思っていたよ。そんな時に拾ったのが君の手帖だ。驚いたけど嬉しかった。」
「…じゃあ、どうしてあの時、冷たく突き放したの?」
「君がオレに片想いをしてたら、家族になるのは気の毒だと思って。でも、杞憂だったね。君は純粋に、オレを心配して打ち解けようとしてくれていたんだ。その証拠に、突き放したらきちんと距離を取って離れていった。君は真面目なんだよ。愛すべき真面目な奴だ。家族に大歓迎だ。
オレはね、仕事ばかりして、母が亡くなる時に日本に居なかった父を何年か恨んた。沢山の人に囲まれている父は、母の事なんてどうでもいいように見えたよ。だからオレも学校でそんな自分に嫌気がさしていた。君が見抜いてくれて何だか安心したよ。君と話した後、父ともちゃんと向き合って和解することができた。感謝してる。」
私が何故か涙が止まらなかった。
「私たち同い年なのよ?久条君がお兄さんになるわけ?」
「そうだな…双子でいいんじゃない?血は繋がっていないけど、お互い不器用で、本当の感情を出すのが苦手な双子。半人前同士の連弾さ。明日からは一緒に登校しようぜ。」
私の最高に魅力的なハーフブラザーは、少し意地悪そうに笑って、涙を誤魔化すように私の頭をぐじゃっと撫でた。
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