夜通し歩き続けた女は、額に滲む汗をぼろ布でこすった。古い聖母像の横を通り、湿った苔で覆われた石の壁に手を触れる。静まり返った礼拝堂は、彼女を迎え入れた。
美しいレリーフ、ワックスがけされた祭壇、弱い冬の太陽を映すステンドグラス、捧げられたキャンドルたち。聖堂の椅子に座り、ぼんやりと宙を見つめていると、どこからともなく司祭の声が聞こえた。
「祈りなさい。」
女は静かに目を閉じ跪く。何処からともなくインセンスとミルラが香り始め、荘厳な讃美歌の合唱が聞こえる。こわばった唇を僅かに開き、掠れた声を絞り出す。白い百合は歌声に応える様にゆらりと蕾を開き、震え始めた。
祈り続ける女の上に、香りと百合の粉がダンスの様に舞い踊る。ステンドグラスから射す色とりどりの光。私の愛の聖遺物(レリーク ダ アムール)は何処に眠るのだろう。
祈りを終え顏を上げる。そこには誰も、司祭すら居なかった。代わりに1本の香水が立っていた。何も言わない。動かない。しかしながら女の脳裏に言葉が刻まれてゆく。その香水が脳に直接メッセージを送っているのだ。
「香りの導きを辿れ。」
女はゆっくりと立ち上がり、香りのする方へ歩き出した。いつの間に現れた、祭壇の横の暗い階段を下りてゆく。
私の名はアルテミス。
海に放った矢が彼の頭を射ったあの時から、心は壊れたままだ。
疲れのせいか石の階段を滑りそうになりながら、螺旋階段を降りてゆく。もう何階分降りたのだろうか。朦朧としてきた頃、突如薄明かりが射し、私は外へ出ることができた。聖堂からこんな風に外部へつながっている道があったとは。
螺旋を下ったため感覚は完全に狂い、一体どこに出たのか分からない。ただ目の前には古い天文台が、夕刻迫る空の下そびえ立っていた。
まるでお入りと言うかのように扉は開いており、アルテミスは引き込まれる様に足を踏み入れた。その瞬間、バタンと背後で扉が閉じ、樹木の濃い香りが室内に満ちた。インディアンローズウッド、鮮やかな朱と淡い赤茶色が織りなす綿密な木目。床に落ちた古い星図を手にとると、黄金の文字が走り出す。
-Palissandre d’Or(パリサンドルゥ ドール)-
そう描き終えると星図は一瞬で燃え上がり、火の粉の影となって壁にこびりつき、代わりに天文台の主人が姿を現した。それは黄金のヘッドを持つ香水瓶だった。
「アルテミス、君が誤って射ったオリオンは、星座となり天空へ昇った。どうしても彼に会いたいのなら、私の優秀な助手、セラリウスに案内させよう。」
天文台の主・パリサンドルゥ ドールの後ろに、ひっそりと佇むセラリウスは、自らの身体を燃やしながら、パピルス草で造られた星図のオリオンの位置を照らした。星図からはスパイスや、シダー、そしてバニラの香りが漂う。
セラリウスは天文台の中を、上へ上へと昇っていった。その灯りは「ついておいで」と言っているようだった。
ウラノメトリア(天空星図)が施された天文台の円い天井。セラリウスが強くペダルを踏むと複数のコイルが回り出した。起動した屋根が折重なって開き、やがて夜空が見えた。セラリウスに促され、大きな古い天体望遠鏡を覗きこむ。
太古の霊鳥は日の出と共に旅立ち、マレーシアの密林、広大で乾いたインドの大地、アラビアのスパイス香る木立へ、西へ西へと進む姿が見えた。
その先に、愛するオリオンが星座となって輝いている。東から昇る苦手なサソリを避けながら、それでも腕を振り上げ雄々しく立ち、アルテミスを見つけるとそっと微笑んだ。
「こちらにおいで。」
アルテミスの長い睫毛に涙の粒が震える。あの時、遠くの海から黄金の岩を射れるかと兄にけしかけられ、愛する人の頭だと知らず射ってしまった。
後悔を払うように薔薇の花びらを巻き散らしながら、アルテミスは不死鳥へ姿を変え、天文台から夜空に向かって飛び立った。炎が彼女を包む。まるで情念が姿を変えたかのようだった。
古い星図に込められた恋の軌跡。
恒久の光を放ちながら、今夜も私たちを照らし続けている。
【掲載製品】
■オリザ ルイ ルグラン「レリーク ダ アムール オードパルファム (Deluxe edition)」100mL ¥16,500+税 / 株式会社ドゥーブルアッシュ tel.03-6427-23
■AEDES DE VENUSTAS「パリサンドルゥ ドール オードパルファム」100mL ¥25,000+税、「キャンドル CELLARIUS」194g ¥12,000+税 / 株式会社セモア tel.03-6753-2753
■BELLOCQ「No.25 URANOMETRIA」42g ¥5000+税 / H.P.DECO tel.03-3406-0313