時に、見えすぎてつらい現実がある。
例えば、僕が努力しても勝てない成績を軽々と叩き出すヤツとか、気になる女の子が自分にまるで気がないとか、兄たちの方が明らかに父に期待されているとか。
こんなことを思うのは若さゆえ?それともちょっと神経質な性格のせい?
彼はキュッと音がしそうな程眉根を寄せ、重いカーテンを開くと眩しそうに青空を眺めた。まだそんなに高くない、穏やかな春の空だ。
この家は敷地が広く、見渡す限り森に囲まれていた。多忙な父親が「自宅に居る時くらいはできるだけ外界との接点を遮断したいから…」という理由らしいが、門まで遠くて毎日面倒だなぁとしか思ったことがない。
家族は全員、敷地内に各1棟与えられており、棟に配置された使用人が沢山いた。朝食くらいしか家族全員が集合することは無かった。(その朝食ですら全員揃わないことがある)子供の頃からそうだったから、あまり寂しいと思ったことはない。
大学生の二人の兄たちは、父の跡を継ぐ存在として厳しく育てられた。けれど、僕にとっては尊敬の対象とは程遠かった。いつも馬鹿にされ奴隷のように扱われた。父が留守の時は遊び呆けているくせに、父は彼らにとても将来を期待しているのが分かるのも納得がいかない。要領がいいのだ。
「ルカ、お前は”自由”を持っている。これは凄いことだぞ。兄さんたちが生涯手に入れられないものだ。好きな事をすればいい。絵を描いたり、音楽をやったり、スポーツをしたり。兄さんたちはお前が羨ましいのさ。」
いつも父はそう言って、僕の肩に手を置いた。15歳になって”期待されていないから自由と言われているのだ”と理解するまで、僕は鵜呑みにして純粋に喜んでいた。
若葉が芽吹き始めた庭は明るく煌めき、生命の息吹が遠くまで見渡せた。オレンジブロッサムに光がじゃれて、太陽の匂いとホワイトムスクが甘く鼻腔へ届く。なんて気持ちのいい午後なのだろう。
ふと、眼下の樹のふもと、草原の上にブロックチェックの布地が見えた。兄たちだ。
どうせまた女性をたくさん侍らせながら酒を飲み昼寝をして、怠惰に過ごしているんだろう。僕には関係のないことだ。(声をかけようものなら酷い扱いを受けるに決まってるし)
窓から離れようとした瞬間、草上のピクニックから一人の女性が顔を上げた。どくんと鼓動が大きく跳ね上がる。
「何・・してるの」思わず彼は声を洩らす。
彼女は、僕が密かに想い続けているクラスメイト。兄たちとどこに接点があったのか。コットンワンピースから、青白い脚が伸びて眩しい。
兄のひとりがボトルを飲み干し、女たちの中へ倒れ込むと嬌声があがった。その振動に身体を揺らしながらも、彼女はじっと僕を見上げている。
少し後ろに頭を傾け、視線はそらさないままブラックベリーを摘まみあげると、そのまま口に運ぶ。彼女の下唇は赤黒く染まる、首筋に果汁が垂れる。
僕は僕の中の衝動に慌てて、窓に背を向けるとカーテンを閉じた。胸が高鳴って苦しい。
いいんだ、まだはっきり見えなくたって。薄く描いた僕の想いは、乾かぬうちにまた色を重ね、より濃くなっていく。グラデーションはいつだって柔らかく、見えすぎる現実を隠してくれる。ゆっくりと、ぼんやりと、17歳の僕を描いていけばいい。
突如、ノックの音が小さく速く鳴った。家庭教師だ。早く来いって合図だろう。
溜息をつくと教科書を幾冊か重ねて持ち、廊下へ向かおうとした瞬間、ドアが細くパッと開き、彼女が隙間から身体を滑り込ませた。慌てて走ったのか少し息を荒げ、透き通るような頬は紅く蒸気している。
「さっき、見てたでしょ。」
囁くような小さな声は、彼女の色素が薄いウェーブヘアを揺らす。急な出来事に僕は何も言葉が出てこない。黙っていると、少しイライラしたように彼女は続ける。
「私を見ていたか、見てなかったか。どっちなの。」
急に現実が質問となって突きつけられる。まだはっきりしなくていいと筆をぼかしたばかりなのに。正直に言えばいいのか、それとも嘘をついた方がいいのかな。彼女が欲しい答えはどっちなのだろう。
「…見ていたよ。」
結局、僕は兄たちとは違う。駆け引きなんてできない。カンが鈍くて気も弱いくせにちょっと神経質。それが現実。それが僕。
ガチャリと、彼女は後ろ手に部屋の鍵を閉めた。
ゆっくりと近づいてくる彼女を前に、僕は冷静な振りをする。歩く度に、揺れる水面のような儚い香りが漂う。ベルガモットにレモン、透き通るようなグリーンにスミレの花。窓から差し込む光が彼女の影と重なり、やわらかな水色のオーラを放つ。
水面に映るぼやけた輪郭のように、僕の理性は揺れていた。
それはまるで、肌に感じるバイブレーション。春の至り。
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