ドイツ語ができず、泣いた
――ドイツには、いつ修行に行かれたのですか?
短大卒業後、3年間民間企業で働き、そこを退職してから行きました。
もともと短大時代に学校でドイツ語を選択したり、近所に他の大学でドイツ語を教えている方がいて、その方に「私、ドイツ語教えるのが好きなのよ、お月謝いらないから教えたい」と言われて、じゃあお願いします、と。
小さいころから海外の手仕事には興味があって、くるみ割り人形とか、そういえば好きだったかもと思い、そうした仕事について調べてみたんです。
そしたら、ニキティキという木工玩具のお店で買った本で、ドイツ東部のザイフェンという町に、木製玩具の工房がたくさんあるということがわかって。
たまたまドイツ語の先生の文通相手の親戚が、ザイフェンにいることがわかり、その方を頼ってドイツへ行きました。
修行先の工房も、ホームステイ先も手配してくださって。
――そうした幸運が重なっての修行のスタートだったのですね。具体的にはどんなことをしていたのですか?
1年目は研修という形で、毎日工房に通って親方から旋盤の使い方や絵付けの方法を習い、時々職業訓練学校に実技の授業を単発で受けに行っていました。
ドイツは、正式に職業訓練を受けるとなると、工房が保険やお給料なども全部支給するのですが、私も希望して2年目からの2年間は正式な職業訓練を受けました。
カリキュラムが決まっていて、週単位で、学校で法律や数学、ドイツ語などを習ったり、実技の講習を受けたりして、その後今度は工房で数週間、親方の元で修行する、という生活でした。
旋盤は、慣れるまではよく木を飛ばしたりしていましたね。おでこにたんこぶつくったり、壁をぼこぼこにしてしまったり、蛍光灯も割ったかもしれない(笑)。
――苦労した思い出は?
ドイツ語の授業が難しくて。
ある時、わからない単語を辞書でひきながら授業をうけていたら、先生が「そんな単語もわからなくて、どうやって卒業するつもり?」と。
そういうことは何言われているか分かるんです。
それでくやしくて大泣きしながら工房に帰ったら、親方が「ひと言いってくる」と。
それで私だけ特別カリキュラムを組んでもらえました。
日本人って困った時に「助けて」って言うのが苦手だけれど、「困っている」と言えることって大事なのかもと思いました。