―空と海をつなぐ、天地を反転させたような地平線。沸き上がる泡のような希望は、乱れた心を安らかになだめてくれる。この泡の向こうに私の愛しい人がいる―
夜明け前、必ず心はさざなみ立つ。ひそひそと恋の噂話を繰り返す若い星たちを、セレーネが小指でちょんと跳ねると少し震えて沈まる。こうして夜の秩序を保っている。太陽のように圧倒的存在感を放つ必要は無い。人々がふと見上げた時に、そっと微笑えんでいるだけで良い。
線画で描いたような細く黄金に煌めく髪を払うと、セレーネは薄く青白い衣を肩にかけた。空から姿を消す準備だ。衣がパッと宙を舞うと、神々が手にしたライムやブラックカラント、地上から舞い上がるミモザの綿毛、クールなミントの香りが辺り一面を染める。
香りに誘われたかのように、一人の青年が空を見上げた。セレーネはいつもと同じように、誰にでもするのと同じようにゆっくりと微笑みかけ、夜明けと共にそっと舞台裏へと姿を消した。
青年はセレーナが消えた後も、じっとを見つめていた。
あくる夜、セレーナが薄衣を脱ぎ裸体を夜空に現すと、またあの青年が自分を見上げているのに気付いた。あくる夜も、そのまた次の夜も。
「何故そんなに私を見つめるのかしら…。」
セレーナは急に恥ずかしくなり、雲の扇で身体の中央を覆った。扇の上から少しだけ顏を出し、青年をちらりと見る。星たちも滅多に起きない事態に、何ごとかと輝きを強める。すると、まるでこちらの気持ちを見通したかのように、彼はふっと笑顔を見せた。
その瞬間、セレーネの中で何かがはじけた。まるでピンボールが弾かれたような、いや銃で撃たれたとまで言えるかもしれない、強烈な何か。圧倒的な何か。
あの美しい笑顔を自分のものにしたい。永遠に眺めていたい。彼の傍へゆくためには、どうしたら良いのだろう?
神々は、セレーネの熱意に伏し、夜明けから月の出る前までの時間だけ、地上に降りることを許した。但し、決して人に見られてはならない。空と海をつなぐ地平線を辿り、森の中の秘密の湖へ移動した。湖面の藻をよけ沈んでゆくと、そこには美しい笑顔のまま永遠に眠るあの青年が待っていた。
頬に撥ねる冷たい水の感触は、最初のうちだけだった。
ある晩、気を失うように眠った僕は、スイレンの合間をぬってこの湖に深く深く沈んでいった。一見様々な花が咲いているように見えるため、誰もこの下が深い水で満ちているとは思わないはずだ。水底には瑞々しいグリーンサップ、豊潤なイランイランが、身体を包むように横たわる。水の中でだけ、僕は生きていられる。恐らく現世で目覚めることはもう無いだろう。
計画通りだ。
毎夜見上げていた美しいセレーネは、決して誰のものでも無かった。僕を見てくれる事すら無かった。だから何も知らぬ振りをして、注意深く彼女の興味を引きつけたところで笑顔を見せた。あの日、あの時の狙い通りに。
水の中で僕らは愛し合う。彼女の細い髪が僕の首に纏わりつき、ホワイトムスクの吐息が気泡となって水中を漂ってゆく。僕の笑顔は魔力だ。寂しく儚い。だからこそ美しい。自分が一番分かっているさ。彼女はもう離れられない。
ある夜、僕は水面まで身体を持ち上げ、たゆたう水の中から空に向かってこう言った。
「ねぇ、空に昇らないでよ。外界がずっと曇りだって構わないだろ?君の白い肌は僕だけが見ていたいんだ。」
見上げると、女神の細い眉が少し困ったように歪んだ。
あえかなるセレーネ、僕が眠り続ける限り、君は永遠に僕のものだ。
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