私は自分がどんな味がするか、考えたことがない。
噛んだら甘いのか、それとも苦いのか。清涼感はあるのか、濃厚なのか。焼いたら美味しいか、レアな方が引き立つか。
目の前のナイフが間もなく自分の肌を突き、幾つか細胞を切り分け到達する手前、私はそんな事を考えていた。ペヨーテ(サボテン)を切り分けた時のみずみずしい断面のように、鮮度の高い赤色をした美しい分身が現れるだろうか。それともどす黒いものが流れ出すか。
あの日私は、自分のオフィスで、明日が提出期限の歌詞制作に必死だった。提出できなければ別の作詞家へ頼むだけだと、音楽制作会社からは宣告を受けていた。分かっているが出てこない。降臨するあの瞬間。リズムとメロディに美しくマッチし、パズルがすべて埋まる瞬間のエクスタシー。
気分を変えようと窓辺へ寄ると、通りの真ん中で大きく手を振る青年が目に入った。鮮やかな青いコートが眩しい。あぁ、机に向かわねば。大きなチャイムの音がしたのはその時だ。
居留守を使うつもりが、何度も繰り返され私は苛立った。チェーンをかけたドアを不機嫌そうに開く。隙間から鮮やかな青色が目に飛び込み、クスクスと微笑むような彼の顔が見えた。
「先生、お疲れ様です。」
先ほど通りで手を振っていた青年だと分かるのに数秒かかった。誰?私の顔を知っているの?聞けば依頼主である音楽制作会社の人だった。普段メールでしかやり取りをしていないし、前担当とも1か月前に会ったきりだ。その後すぐに辞めたらしい。あの件があったからこちらからも連絡しづらかった。最新の発注をくれたのは、現担当の彼だそうだ。
慌ててドアを開け迎えると、外気から官能的でスパイシーな香りが漂った。月桂樹にカルダモン、シダーウッドとオークモス、柔らかなアイリスに重低音のようなアンバー。まるで金じきに輝く葉のようで、思わず私は乱れた髪に指を通し整え、慌てて客人用のスリッパを探した。
20代半ばだろうか。緩くウェーブがかった黒髪と伸びた背筋、こちらの目をしっかりと見て話す凛とした姿。私は急に恥ずかしくなった。
「先生、今作の調子はいかがですか?」
今回の詞は、美しく脆弱な花をテーマにしている。タイトルは『GLASS BLOOMS』。歌うのは有名女優で、CDデビューに合わせ化粧品のCMが決まっているらしい。若々しく繊細な花のジューシーさ、白いサテンのような香りが花開く様子、脆くて儚い穏やかな女性像。まるで花弁のゴーストのように
そうゴースト。
私は前作でスランプに陥り、ファンからの手紙に添えられた詩からアイデアを盗んだ。その楽曲は売れに売れて、近年珍しい大ヒット曲となった。しかし、私の名前は出なかった。いざCDになってみると、作詞は歌唱した若いシンガーソングライターの名前になっていた。私は制作会社へ猛抗議したが、大手事務所との兼ね合いで今回ばかりは許して欲しいと、3倍のギャラを積み社長自ら謝罪に訪れ、結局私は引き下がってしまった。
「お茶淹れますね。」
彼をソファーに通し、キッチンへ向かう。長居は気が散るから困るが、こんな素敵な若者が居てくれたらイマジネーションも沸くかもしれない。
「先生の歌詞、10代の頃から大好きです。メキシコにインスパイアされた異国情緒あふれる『CACTI』は、あのバンドの転換期にぴったりでしたね。『GOLD LEAVES』も好きだな。彼の歌声と凄くマッチしていて、滑らかな女性の身体がイメージできました。」
私は気分を良くしながら、茶葉を取り出しポットの中に入れた。褒めて伸ばすタイプの担当ね。さて、カップを出して…。
「『FALLING TREES』も凄く好きです。古代から続く木々の息吹や、力強い生命力が、夢に向かい強く生きる姿がメッセージにつながっていて、世代を超えて愛されるほどドラマティックですね。」
そうなの、あの曲は苦しんだけれど、テレビでも街中でも聞かない日はないくらい…え?あの曲はシンガーソングライターが作ったことになっているのに?
その瞬間、背後から強い力で首を絞められた。
「先生、『FALLING TREES』の詩を僕から盗みましたね。僕は先生のファンでした。狭き門であっても作詞家になろう、誰かの心に届く詩を書こう、そう思って先生に手紙を送りました。必死に考えた詞を添えてね。半年後、僕はテレビから流れてきた音楽に、心底驚きました。そして作詞家名を見て愕然とした。先生の名前でも無かった…。」
薄れる意識の中で、私は、床に頭をこすりつける社長の姿を思い浮かべていた。
微かな口笛の音がする。縛られて全身に感じる痛み。柔らかな白胡椒、清純なミモザとすみれ、甘いトンカビーンズの香り。甘く寂しげな表情とキュッと上がった口角。そうか、私は彼から盗んだんだ。薄く目を開けると、彼は私に背を向け、窓には白い月が浮かんでいた。きらりと反射するのはナイフの矛先だ。
「僕は詞の行方を必死に探しましたよ。歌手本人が手掛けているとされていたから事務所は相手にしてくれない。あなたはフリーで様々な制作会社から依頼を受けている。今時はメール連絡が主で接触も少ない。だから僕は、先生の向かいに引っ越し、時折訪れる人間を全て見張りました。
寺田さんでしたっけ。夜道で問い詰めたらあっという間に吐きましたよ。彼?ナイフを首に当てて、ゴミ箱の中へ突き落とました。僕は彼の紹介だと入社し、やがて行方不明の彼に代わりあなたの担当になった。新曲を発注し、機会を待ちました。先生は、相当なスランプですね。前作も、そして現在も。自由になりましょう。偽りからも、汚れた未来からも。」
彼の顔は紅潮し別人の様に歪んでいた。私はぼんやりと、時間の経過でまったく違った側面を見せる香りのことを思い出した。緊縛された身体とは裏腹に、彼の独白で私の心は何故か穏やかだった。そう、糾弾されたかったのだ。
私の身体はふわりと宙に浮いた。
果物の深部へ突き刺さるように、私を貫いていくパルス。
あなたに返すね、あなたの言葉を。
【掲載製品】
■レジーム・デ・フルール
「CACTI」「GOLD LEAVES」「GLASS BLOOMS」「FALLING TREES」「WILLOS」
各100mL 各¥30,000+税
エストネーション有楽町店、六本木ヒルズ店、銀座店、大阪店、神戸店
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