屋上に続く階段を昇り、少し重たいドアを開ける。途端、鮮やかでキラキラした夏の太陽の光と、朝の澄んだ空気が射し込む。彼女は洗濯カゴをヨイショと持ち上げ、少しづつ干し始めた。起き抜けに纏った、ミラー ハリスの『レブリード ベルガモット オーデパルファム』が香る。太陽となじむアロマティックな香りが心地いい。ほぼ出かけることが難しい幽閉状態の彼女にとって、屋上で洗濯物を干した後、錆びかけた丸椅子に座ってボーっと空を眺めて過ごす日曜は、最大の息抜きとなっていた。
私は一度、名前を失った。身分を失った。キャリアを失った。自分を失った。
父は幼い頃に病死し、母が一人で育ててくれ、私もできる限り10代からアルバイトし家計を支え、奨学金で大学にも行った。派手ではないけれど、静かな暮らしだった。母は生真面目で仕事にも家事にも手を抜かず、私にも優しい立派な人だった。しかし、そんな完璧主義が強いストレスだったのか、10年前に他界してしまった。働きすぎで寿命を縮めたんだと思う。
母が亡くなった頃、私はもう就職していて、編集プロダクションでエディターをしていた。地道にキャリアを重ねて独立。自分の名前で新聞に連載を持てるようになり、コラムニストやコメンテーターといった仕事も増えていった。企業の社長へのインタビュー記事を新聞で連載していた時、ラグジュアリーブランドの広報を務めていた仙崎あかねと知り合った。
のちに仙崎あかねは、仙崎大臣の娘ということがわかるが、知り合った当時はそんなこと思いもせず、若手の広報ウーマンという印象だった。彼女が原因で、まさか自分がすべてを失うことになるとは思いもしなかった。
那須龍也から私へ、最初にDMが来たのは、2019年の1月頃だったと思う。私が様々な社長へインタビューしている記事を見て、「前野さんは泉社長へインタビューしたこと、または今後する予定はないでしょうか?」というメッセージだった。それだけなら、これまでもないし、今のところ予定もないと答えるだけだったけれど、私はその後の内容に興味を持った。
那須の親友は泉の会社で働いていたが、新卒2年目になった頃、突然、消息が不明となった。無断欠勤が続き、同僚が一人暮らしの自宅マンションを訪ねてみたが誰も出てこず、実家の両親も理由がわからない、連絡も来ていないとのことだった。家族から大家に依頼し鍵を開けてもらったが、特におかしな様子も、メモなども残されていなかったそうだ。両親は彼の失踪届を出したが、手掛かりの無いまま数か月が過ぎた頃、会社宛てに彼から「退職届」が届いた。手書きではなく、PCで打って印刷したものだったが、本人の自宅付近から投函されたことがわかり、警察は何か事情があって自主的に行方をくらましただけで、事件性はないという判断となった。
那須は、行方不明になる前の親友が「オレ、まだ新卒なのに社長に気に入られててさ!今日も飲みにつれて行ってもらったんだよ。ほとんど毎日、付き合わせてもらってる。」と自慢していたことを思い出し、泉社長が手掛かりを何か知っているのではないかと思った。しかし、部外者が容易に近づける立場の相手ではない。そこで那須は、泉の会社に入社した。
それと同時に、たまたま新聞で私の記事を読み、泉社長に密着取材のような形ができないかと相談をしてきた。私は事情を聞いて、泉やその秘書などが何か知っている可能性はあると思ったが、そう簡単にボロを出す相手ではないだろう。だから、那須には時間をかけて、泉に気に入られるよう行動するようにアドバイスした。
それから半年後、那須は消息を絶った。私たちは週に2回決められた曜日と時間にチャットで連絡を取っていた。
「突然僕が現れなかったら、泉関連で何かあったと思ってください。でもすぐに行動を移さないでほしいんです。僕と前野さんが繋がっていることを悟られないため、最低1~2か月は間をあけてください。前野さんを守るためです。」
「そんな2か月も待ってたら、那須君が危険じゃない。」
「そうかもしれませんが、すぐに殺されたり、海外へ渡らされたりしたら、もうそれはそこまでだったと思います。親友のアイツを見つけ出すことができるかもしれないし、最悪僕も死ぬかもしれないけど、奴らに何かあるということだけは証明できたことになる。だから、お願いします。」
そう言っていた彼が実際に消えると、私は今すぐ泉社長を問い詰めたい気持ちが溢れそうになった。ぐっと堪えて月日が過ぎるのを待ち、密着記事の企画書をいざ先方へアプローチしようという段階で、仙崎あかねから連絡があったのだ。彼女は最新の美容情報として『サロン』の話をした。基本的には女性はNGで、会員の男性が事前に申請し許可を得た同伴者だけ、女性も入れるその場所は、有力者だけがお忍びで通っていて、疲れがとれて肌ツヤが良くなるとのことだった。
そして、泉社長はその会員であることから、仙崎あかねは私に同伴で密着取材をしないかと誘ってきた。仙崎あかねの同僚である婚約者が、行方不明になり、その後退職届が届いたと言う。仙崎は婚約者が行方をくらました直前の行動を探り、泉社長と『サロン』へ行ったことを知ったため、どんな場所か探ってほしいと言った。
那須の親友に、那須本人、仙崎の婚約者…少なくとも3人は同じ流れで消息を絶っていることは間違いなさそうだ。と思った矢先、仙崎から “婚約者”の写真を見せられた私は、電話で動揺を声に出さないように必死になった。その写真は那須だったのだ。
那須が仙崎あかねを利用して調べていたという可能性もあるが、私たちは何でも情報交換をしていたし、私たちは協力関係にあるのだから隠す理由がない。重要そうな人物なら、事前に話してくれているだろう。つまり、那須は先崎の婚約者ではない、ということになる。その那須を探してくれという仙崎は嘘をついているし、そもそも仙崎自身が那須の失踪に関わっている可能性すらある。わざわざ泉の外出に同伴させてまで密着取材をしろという、本当の目的がわからない。
こうやって『サロン』の事件は起きた。その結果、私は「前野ひかり」という本名を捨てさせられた。前野ひかりは突然死し、「水野ひかり」として身分証も家も用意された。友達にも知り合いにも、何も言わせてもらえなかった。私の葬儀があげられるのを、私は遠くから見ていた。マスコミも一時は「若くして亡くなった女性ジャーナリスト」として私を取り上げたが、半年も経てば誰も騒がない。私は世間から忘れられていった。それが物凄く寂しくて、怖かった。
「おはようございます。部屋にいないと思ったら、やっぱり屋上でしたか!」
「おはよ。なんか差し入れ?」
「そういうの、自分から言うかねぇ。ホント、ひかりさんってデリカシー欠如してるんだから。はいはい、ありますよ。三茶でトリュフベーカリーのパン買ってきました。」
「ありがと。ねぇ、那須君ってさ、今まで生きてきた世界を失ったのに、なんか楽しそうだよね。」
「…そこに留まっていても、留まっていなくても、毎日世界は動いていくじゃないですか。だったら僕は留まっていたくない。それだけですよ。」
「公安に監視されてたり、まともな職につくことが許されなくても?」
「ひとりじゃないですから。ひかりさんも、糸田さんもいるし、花はきれいだし、太陽は気持ちいいし、パンはこんなに美味しい!」
那須は大きくパンをひとかじりした。
確かに、日曜の朝はこんなにきれいだ。パンを買ってきてくれる社員(?)もいる。今ある幸せに目を向けず、失ったものに固執していても仕方ない。
水野ひかりは、調査会社「クルーエルシアン(通称CC)」の現役調査員だ。三宿の交差点から一本奥に入った、アンティークショップのビルの3階にいる。部屋に戻って、もう一度同じ香りを纏った。近いうちに、糸田がまた新しい事件を持ってくるような気がした。
【掲載商品】
■ミラー ハリス
「レブリード ベルガモット オーデパルファム」
100mL ¥23,980
インターモード川辺 フレグランス本部
Tel. 0120-000-599
https://millerharris.jp/