魔法の香り手帖

花冠の行方

ねぇ、あの夏の日の香りを憶えている?

どこまでも抜けるような澄んだ青空に、綿菓子のような雲、陽射しを浴びて一層輝く緑の樹々。私たちはあの別荘の庭に作られた、ちょっとした石段に座り、一緒に花冠を作った。互いの頭に乗せて、王子様とお姫様ごっこをした。花冠からは蜂蜜のように甘いハニーサックルの香り。庭に漂うジャスミンとプチグレン、自生する水仙。

夏休み、私たちはいつも一緒に居た。毎日庭に出て、時には裏の小道を抜け出て、叔父の営む人参畑までこっそり出かけていった。まるで迷路のような畑の道で、叔父たちに見つからないようにかくれんぼをして、人参を食べにくるウサギたちを追いかけた。

君はとても繊細で、争い事が嫌いだった。私が母に怒られそうな時は、そっと庇って代わりに怒られてくれた。いつも優しかった。

夢の中で君はこんなにも鮮明なのに、目が覚めると私は君の名前すら思い出せない。顔さえぼんやりして、本当に存在したのかすらあやふやになる。夏の終わりが来るたびに、君の記憶は薄れていく。

君が畑の道でいつか落とした鈴は、今でも引き出しの奥にある。私は毎年鈴を取り出して鳴らしてみる。チリンと1度だけ。あれが夢ではなかったと、信じたいから。


13年前の夏、私はおなかの中に居るあなたのために薔薇を育て始めた。あなたが生まれた時、美しい薔薇を見せてあげたくて。手入れにはとても苦労したけれど、毎日観察していると、薔薇に今何が必要なのかが段々と分かってくるの。

あなたが3歳の誕生日を向かえた時、きれいに棘を抜いた薔薇を、沢山飾ってあげることができた。薔薇に囲まれたこの家で、あなたはどんどん大きくなっていった。

完璧な薔薇を創り上げること、それは完璧にあなたを育てることに思えた。私はどんどんのめり込み、あなたを厳しくしつけた。身なり、作法、知識、礼儀。出来なければ出来るまで止めさせなかった。6歳のあなたの身体にはどんどん青黒い痣が増えた。あなたは時折苦しそうな顔をしたけれど、最後には決まって笑顔で頷いてくれた。分かってくれるのね、あなたのためなのよ。

あなたの痣に気づいた夫は、私は激しく責めた。私は何も悪いことはしていない。完璧な男性に育てるための通過点じゃない。夫は「君たちは互いに休暇が必要なんだよ。」と、夫の親戚の家へ夏休みの間息子を連れていくと言い出した。私は反論し納得もいかなかったけれど、「それがあの子のためだから」と何度も言われ、仕方なく送り出した。あなたがいない間、私は家に籠もり、毎日薔薇と向き合った。

9歳の夏が終わった。あなたは秋になっても帰らなかった。

やっぱり離れるべきじゃなかったのよ。何故戻って来ないの?あの子はどこへ行ったの?勉強のため寄宿学校へ入れたと夫に言われたわ。「君はあの子から離れた方がいい。」私に何の相談もせず、どうして取り上げるの?

今年は完璧に美しい薔薇が咲いた。官能的な野生の薔薇。
今宵こそは、今宵こそはあの子に会いに行く。咲いたばかりの薔薇を抱えて。


日差しが和らぐ頃、トスカーナの黄土色の丘の上、レモンツリーの香りが風にのり鼻腔へ届く。紳士は片手に下げていたトランクを開け、美しく輝くルビーの入った箱を膝の上に置いた。愛する妻の分身のような深紅の薔薇の色。そして2年前に失ったわが子の脈打つ血の色。

息子が虐待を受けていたことに、私は気づいていなかった。言い訳にしかならないが、私は貿易商としてあちこちへ仕入れや納品に走り、1ヶ月程家を空けることも多かった。妻は昔から少しエキセントリックなところがあり、一人にしておくのは心配だったが、薔薇を育てはじめてから心が安定していたので、油断してしまった。

息子は本で殴られ、食器を投げつけられ、それでも何も言わなかった。いや、言えなかったのだろう。母は自分を愛していない訳じゃない。おまえのためだと言われたら受け入れるしかない。気づいた私は困惑した。妻を怒鳴れば、妻の精神状態も悪化してしまうかもしれない。まずは出来る限り家に帰り、見張るしかない。

しかしながら、夏の間はどうしても毎年、長い船旅で仕入れに向かわねばならなかった。1~2ヶ月も彼らを放っておくことはできない。そこで私は、姉の家に息子を預けることにした。姉には小さな娘がいて、遊び相手になるだろう。田舎だが環境はいい。きっと息子も息の詰まる毎日から解放されるだろう。

預け始めて4回目の夏。私は姉からの連絡を受け、慌てて船旅から戻った。ちょうど早めに切り上げて戻る途中だったのが救いだった。

姉に話を聞くと、夫が営む人参畑の水路の縁で、娘が大声で泣いていて気づいたそうだ。娘は、野ウサギが水路を飛び越えたのを真似しようとして水路に落ち、それを助けたのが息子だった。息子は変わりに水路に落ち、顔と頭を石に強く打ち付け意識を失い溺れた。大人たちが救出した時にはもう死んでいた。

そう話すと姉は床に崩れ落ちて泣いた。私はどうしたら良いか分からず、泣くこともできなかった。妻に何と説明すれば良いのだろう。私が彼女から取り上げたのに、守ってやれなかったことを。妻は壊れる。間違いなく。

姉の娘に、息子が君のために死んだ記憶を残してはいけないとも思った。息子は彼女と遊んで楽しかったことをいつも話してくれた。逃げ場のない息子の心を癒してくれていたのは彼女だ。

「お父さん、この陶器の鈴1つもらっていい?あの子にあげたいんだ。」

いつか息子は、私がアジアから持ち帰った鈴をねだった。彼女が罪の意識を背負うことがないよう、私と姉で記憶を書き換えていかねば。

大地から立ち昇るサイプレスの香りに、永遠の安らぎを一瞬だけ感じた。
息子はきっと天寿を全うした。その死は愛する者を守った。
何年後か分からないが、天国で会おうな。

どこかで鈴の音がした気がした。


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著者プロフィール

YUKIRIN
YUKIRIN美容ジャーナリスト/香りのストーリーテラー
ナチュラルコスメとフレグランスのエキスパートとして、
「香りで選ぶナチュラルスキンケア」や、「香りとメイクのコーディネート」など提案する他、
香りから着想される短篇小説を連載中。

媒体での執筆・連載の他、
化粧品のディレクション、イベントプロデュース、ブランドコンサルティングなど幅広く活動している。

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