男は俯きながら、メリルボーンハイストリートを一定の歩幅で歩き続ける。通り過ぎた香水店から漂う溶けた蝋の香り。大丈夫だ、気づかれていない。エレガンスが漂う街。ウェストロンドンのクールでシックなエリア。曲がりくねった路地は、尾行しやすい。
今回の依頼は、音楽家の素行調査。性別以外、顔を明かさない音楽家である彼女は、世界的なスターだ。依頼者は音楽家の恋人だと名乗った。対象者も依頼者も“女”だ。まぁ…、そういうことだろう。依頼者の女は美しかったが、どこか男性的な香りがした。ウッディでアヴァンギャルド。エッジが効いた官能的でモダンな香り。しかし少々ハンサム過ぎる。女が帰った後、彼女が座っていた椅子の座面に頬を乗せてみる。やわらかなぬくもりと、やはりどこかドライでスモーキーな香りがする。
翌日の午後、リハーサルを終えた音楽家のあとを早速尾行することになった。強い陽射しの中、彼女は色の濃いサングラスをかけ、人を避けるように歩いていく。
観光客が9番バスで名所を巡ると、気品あふれるケンジントンにも活気があふれる。英国王朝ゆかりの建造物や、エドワード朝様式の邸宅、ロンドンの豊かな歴史が刻まれた街。
夫人は、色褪せた家族写真をぼんやり眺めていた。娘は5歳、夫に肩車をされ微笑んでいる。写真に鼻を近づけると、力強いアンバーの匂いがする。机の上のシナモンティー、甘いトンカビーンとバニラの余韻。幸せだった28年前。
夫は警察に勤めていた。当時、ある密売事件に関わっていたらしい。ある日から家に帰らなくなり、3日後に警視監が訪ねてきた。夫はその事件を追っていたのではなく、警察官でありながら内通者だったと説明を受けた。言葉が出ない私の前に、小さな箱が置かれた。中には血のついた汚れた結婚指輪が入っていた。刻印は紛れもない夫のイニシャルだった。逮捕時の紛争で死んだ。
悲しんでいる暇は無かった。私は娘との生活を守るためだけに生きた。娘のためにも、新しい姓を名乗ることにした。娘は成人し、家を出た。3年前、私は勤め先のオーナーと再婚をし、今はこのケンジントンで贅沢な暮らしを送っている。でも時折思い出してしまう。この家族写真をこっそりと見ると…。
ベルガモットにオークモス、ラズベリー、はじけるピンクペッパー。ペルグレイヴィアの高級住宅地。贅沢なプールの前で私はリサイタルに向かう準備の仕上げに香水を纏い、肌の匂いを吸い込んでいた。
8歳のモーツアルトが最初の交響曲を作曲したイーバリー・ストリート180番地。ショパンがロンドン滞在中に初の演奏会を開いたのはイートン・プレイス。歴史あるこの場所で、私も今夜リサイタルを開くことができる。裕福な家の子供が、遊びのように楽器と戯れるのとは違う。ここまでに苦労した。
父の事件について、母が簡単に受け入れ、犯罪者の家族として生きていくことを選んだ事が、私には理解できなかった。長く暗い影を落とした我が家。母とは上手くいかず、私は20歳で家を出た。
それと同時に、父の事件について、この13年少しずつ調べてきた。父は、警察が押収し保管していた密売品をその組織に横流し、事の発覚が間近に迫った段階で、保身のため組織の情報を売ったとされていた。しかし、まだ20代だった父に、密売品を横流し出来たか…と思うと甚だ疑問だ。逮捕時の銃撃戦後、遺体は警察預かりとなっており、母も実際の遺体を見ていないと言う。
最近、あるニュースが舞い込んだ。新たに薬品の密売事件を起こした組織が、警察内部の人間の協力を得ていたと証言したと言う。その人は署内で頭を打ちぬき自殺した。父の指輪を持ってきた当時警視監だった男だった。
つまり、父の死を告げに来た人物が、そもそも密売に関わるような人であった訳だ。疑念をぬぐいきれず、私は警視監を調べ上げた。そして、メリルボーンで探偵業の男が、つい最近まで警視監の手足となる情報屋でもあったと知り、私は自分のマネージャーに、探偵が「私の素行調査」をするよう依頼させた。私は名前こそ世界中に知られているが、運よく顔を知られていない。スターの素行調査なら、面白がって引き受けるのではないかと思った。
予想は的中し、私への尾行が始まったが…、笑ってしまうほど下手だ。撒く必要もないので、こちらも色々な形で観察した。数日対峙してみて、密売に関わる警視監の外部ブレーンにしては弱い気がした。そして一番気になったのは、探偵の癖だ。自分の服や腕に鼻を当てて匂いを嗅いでいる。私の癖とよく似ている。まさか…?でも写真に残る父とは別人だ…。
私は今夜のリサイタルに、母を招待した。探偵へはマネージャーからチケットを渡し、母の隣の席に座る化学反応を見ることにした。
「すみません!」
会場がざわつき、誰かが人とぶつかりながら、出口へ突進していく。それは探偵の姿だった。お客を突き飛ばしながら走ったものの自ら足がもつれ、階段から転がり落ち、その場に伸びてしまった。
警備に私の楽屋へ運んでもらった。母も終演後、呼び寄せた。目を覚ました探偵、いや父と名乗る男は、顔を引きつらせながら語った。28年前、母と私の命を狙うと脅され警視監の罪を背負ったこと。二度と家族には会えないが、命も奪わず、整形さえすれば探偵をしながら食べていけることを約束してやると言われたこと。断ることはできなかった。
警視監の自殺も、もしかしたら自殺ではないのかもしれない。巨大な黒い野望に巻き込まれながらも、父なりのやり方で家族を守っていたのだ。もう元に戻ることはなくても、3人の変わり者が何としてでも生きていけるように。
何処からか、クラシカルなシプレノートが香る。
私と父は同時に、自分の服に鼻を近づけた。
【掲載商品】
■ペンハリガン「メリルボーン ウッド オードパルファム」
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各100mL 各¥22,000+税
ブルーベル・ジャパン株式会社 香水・化粧品事業本部
tel.0120-005-130(10:00~16:00)
※2018年9月12日(水)より伊勢丹メンズ館にて数量限定発売
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