見渡す限り、灰色の空だ。雲は厚く、陽の光は遠い。冷えた風が薄いショールの間から老女の首筋に忍び込む。
―20年前のある夕暮れ時、玄関で物音がして私は慌てて薄いローブの胸元をかき集め出ていった。
「ローズ?帰ったの?」
そこには彼女の気配はもう無かった。慌てて落としたと見える分厚い本が仰向けに開き、スパイスのような懐かしい香りを放っていた。蹴られた男物の靴を並べ直す。きっとまたどこかで時間を潰して帰ってくるだろう。
焼けた薔薇の香りを纏い、部屋で寝ている男の元へ戻った。彼は娘の学校の教師だが関係ない。私たちは食べて行くのに、男が必要だった。それだけだ。
彼女は二度と戻って来なかった。
明日こそ、あの娘が帰ってくる。今はいい暮らしをしているに決まっている。毎月、振込みがあるのはその証拠じゃないか。
ベッドに仰向けになり、老女は手を伸ばした。そこには鮮やかな真っ赤な薔薇が咲いている。幻の薔薇が。
どうしてこんな顔に生まれたのだろう。
8歳の頃、妹が褒められ、自分が褒められない理由を知った。その瞬間、私はすべてを恥じ入った。今まで妹が褒められる度に誇らしげにしていた自分。恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい。
以来、醜い顔を髪で覆った。教師でさえも私には近づかなくなった。
彼女が話しかけてきたのは、17歳の冬だった。落とした財布を拾ってあげたのがきっかけだった。彼女は人気者だから、一緒に居るところを見られては迷惑がかかる。私たちが会うのは決まって夕暮れ、川辺の目立たない場所だった。石の上に座り、沢山の話をした。私はいつも饒舌だった。彼女はいつも笑ってくれた。
「普段もっと話したらいいのに。あなたって本当はチャーミングよ。」
私の本当の姿は、彼女だけが知ってくれていたらいい。彼女からは、いつも洗練された美しい香りがしていた。女らしくて、エレガント。お母さんが香水好きらしい。でも家族の事は余り話したがらなかった。
卒業式の日、私たちはいつものように待ち合わせていた。
彼女は暗い表情で現れた。
「どうしたの?何かあったの?」
以前より彼女は教師に片思いをし、猛烈なアプローチをかけ、関係を発展させていた。その教師が女性といるのを見てしまったらしい。常々、私は恋をしている彼女を、良く思っていなかった。つまらない教師と過ごしているより、私と居る方がずっと楽しいと思って欲しかった。
「男のことなんてどうでもいいじゃない。それより今日面白い本を見つけたわ。貸していた本は持ってきてくれた?絶版になっている貴重な本で…」
「どうでも良くないの!いつも恋愛の話になると話題を変えるわね。恋したことないからでしょ!」
私は正直ムッとした。彼女のような美しい顔なら、私だって私だって…。
「はいはい、恋の話もちゃんと聞くわよ。他の女と居たんでしょ?その程度だったってことよ。それよりこの前の本、あれ大事なものだから…」
「何それ。見下してるの?この前の本なら古本屋に売ったわ。いつか買って返すわよ。」
「なんですって?!あの本はもう買えないのよ!酷いわローズ!」
「前から貸す貸すって鬱陶しかったのよ。そんな醜い顔で恋の話聞くって?笑わせないで!」
私の中で何かが弾けた。何故だか妹の顔を思い出していた。人形のように整った上品な顔。その顔に思いっきり爪を立てた。顔が見えなくなるまで無我夢中で腕を動かした。瞬間、ぎゃあという声と共に、彼女は不安定な川辺で足を滑らした。今まで座っていた大きな石に頭を打ち付け、崩れ落ちた。
そこからの私は酷く淡々としていた。彼女を橋の下の暗闇まで運びビニールシートをかけ、一度家に帰り荷物をまとめると、夜中に戻り彼女を埋めた。私が拾ってあげた財布から、身分証と金を抜き取った。財布を彼女の上に投げ入れた時、何かが終わった気がした。
その夜、二人の18歳が町から消えた。
この地下の店で過ごして何年になるだろう。
時折疼く、こめかみの傷。朦朧としてしまう。仕方ない、拾われる以前のこと全て、自分の名前以外覚えていないのだから。
―暗闇で目を覚ますと、身体中が痛んだ。ここはどこか、自分が何者かさっぱり思い出せなかった。ただ息をせねばと、必死で這って橋の上に出た時、大きな黒いバンに轢かれかけた。中から慌てて出てきた紳士は、私を車に運び入れた。
それから暫くは病院で過ごした。記憶は戻らなかったが、傷も目立たなくなり、話せるほどになった。治療費を返す代わりに経営する店で働いて欲しいと紳士に言われた時、私は当然そうすべきだと思った。
今の私はとても幸せだ。通ってくれる男たちへ愛と悦びを与えることができる。
そして私の可愛い娘。彼女のためならば、どんなことも出来る。美しい娘。
つけっぱなしの店のテレビからは、淡々とニュースが流れている。
―身柄を拘束された男は『交際相手の女性が手術で得た顔であったと知り、嘘の美人だったから首を絞めた』と自白しています。被害者の女性は、会社経営者のローズ・ブラウン氏。2011年頃に起業し一流企業まで育て挙げ、近年はメディアでの活躍も目覚ましく、美人企業家として人気を博しました。彼女の生い立ちは語られていませんが、田舎の母親にずっと送金しているとの噂もありました。彼女の死を悲しむ街の声、インタビューを御覧ください…
自分に良く似た女性の顔写真を眺めながら、世の中には全く違う人生があるものだなとしみじみ思う。
「ローズ、お客さんだよ。」
同僚のアンバーに声をかけられ、ぼうっとした頭を振り立ち上がる。
コンクリートの隙間から、僅かに灰色の空が見える。
今夜は娘に薔薇を買って帰ろう。
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■ラルチザン パフューム
「アルカナ ロザ オードパルファム」75mL ¥26,000+税 ※現在日本国内での販売はございません
「ポアブル ピカーン オードトワレ」100mL ¥17,000+税
ブルーベル・ジャパン株式会社 香水・化粧品事業本部
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「FL オードトワレ シプレ」50mL ¥12,000+税
フローリス(ハウス オブ ローゼ) tel.0120-16-0806
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