魔法の香り手帖

香りは沈黙の言葉

香りは沈黙の言葉

あと一秒早ければ立場が変わっていただろう。
背中合わせの僕らはすべて見渡すことができるはずだったから…。



アンリは山のような書類に目を通していた。若干23歳でアヴィス家の当主である彼は、若き天才実業家としてメディアで姿を見ない日は無く、様々な分野で活躍していた。

彼は『Black Amber』と呼ばれている。漆黒の竜涎香とはよく言ったものだ。彼から香り立つ香りは独特で、世間の女たちは彼の灰色の瞳や美しい黒髪、黒いスーツ姿や細長い手足に惹かれ、騒いでいた。

細い黒縁の眼鏡を外し、束ねていた長い黒髪をさらりと解くと、ベチパーやパチュリ、竜涎香の香りが広がる。

『今日はここまでにしてくれ。この後は眠る。』

アシスタントを下げ、アンリは煙草に火をつけた。このところ『The Infidels(ザ インフィデルズ)』の女たちが次々と消えている。彼女たちは皆美しく妖艶で、メイローズやジャスミン、アイリスといった様々な名前を持ち、またその香りを身に着けている。女優のように一瞬で姿を変え、時には相手の懐へ飛び込む。お陰でこの数年は、正面からは接触しづらい権力者たちの様々なスキャンダルを手に入れた。

我々アヴィスが勢力をここまで拡大できたのは、僕が作ったこの組織の功績だ。まぁ、その分敵も増えたが…。

突然ノックの音が響き、アシスタントの声がした。

『失礼します。警察がお越しになりました。』

答える前にドアは開かれ、数人の男が入ってきた、

『何の真似だ。署長はどうした。私が数々の事件に協力してきた事を知らないのか?』

刑事はまるでその声が聞こえていないかのように話し始めた。

『アンリさん、6名の女性の殺人容疑であなたに逮捕状が出ています。彼女たちには職業も発見された場所も足取りもバラバラですが、あなたという共通点があります。』

『共通点?』

『彼女たちが死の直前に会っていたのは、黒髪の長身の男だったと目撃証言が多数上がっています。またその男からは独特な香りがしたと。あなたの写真で確認もとれました。またその目撃された時間すべて、アリバイもありません。』

『私の仕事はとても疲れるから、21時には眠ることにしている。
見つかった女たちというのは何処の誰だ。』

「見せられた名前のリストを見て、思わず息を呑んだ。全て行方不明となっている『The Infidels』の女たちではないか。しかし、秘密組織の事を易々と刑事へ明かす訳にはいかない。直接私が接触するなどありえないとしてもだ。」

『目撃証言だけで逮捕状は出ないだろう。』

『女たちの遺体付近や手の中、ボタンなどに絡みついている毛髪が、あなたのDNAと一致しました。』

アンリは目を大きく見開いた。

『そんな筈はないっ!』

刑事はニヤリと微笑むと、叫んだ。

『押さえろ!一応まだ”第18代当主”だからな。傷つけずに連れていけ。
アンリさん、話はゆっくり伺いますよ。』

騒ぎの後、静寂が訪れた。
アンリは拘留され続け、使用人たちには暇が出された。
連日押しかけていたメディアも、事件の進展が無いため徐々に姿を消し、数か月後、館からは人の気配が消えた。

ある夜、小さな靴音が響き、貯蔵庫の床扉が内側からギィィィィと開けられた。漆黒の髪、長い手足、黒いスーツ姿。アンリではない、なぜなら瞳がサファイヤのように蒼い。その男からはカーネーションやラン、オリバナムの香りが漂う。

『アベル様、お待ちしていました。』

アシスタントがゆっくりと跪いた。

『アンリは、どうしている?』

『憔悴しきっています。が、DNAも一致していますからね。』

『完全に無罪の証拠を投げてやれ。無罪となり世間の関心を集め、この家に戻る瞬間を狙い、私は完全に入れ替わる。あいつは歴史あるこの家の名誉を汚し続けてきた。私の蒼い瞳は聖者の石だ。父は間違えたのだ。正しく導く人選を。そしてその犠牲を。』

アンリは数秒だけ先に生まれた。歴代当主を任せる存在として双子は争いの種となると父は判断し、泣き叫ぶ母と僕を地下に幽閉しアンリを後継者として育てた。母と一緒で寂しくはなかったけれど、なぜ夜中しか外に出られないのか分からなかった。母は『アベルは太陽に当たると皮膚がただれてしまう病気なのよ』と言った。

10歳になると、家庭教師の男がついた。彼は勉強だけでなく、館の外のことや、人々の暮らしから政治経済まで全て教えてくれた。

母が死んだのは、18歳の頃。長年の幽閉による疲れが、病魔を呼び寄せた。墓はひっそりと庭の隅に作られた。僕はどうしても、母が好きだったジャスミンとチュベローズの花を手向けたかったから、皮膚がただれるのを覚悟し、日中こっそりと庭の花を摘みに出かけようとした。しかし、陽に照らされた白い肌がただれることはなかった。母は嘘をついていたのだ。

「館の中から大きな笑い声が聞こえ、僕はこっそりと窓を覗いた。そこには自分と瓜二つの少年が、よく似た風貌の男と本を覗きながら笑っていた。あぁ、母はたぶん、これを僕に見せたくなかったんだ…。
家庭教師はすべてを話してくれた。少年の名はアンリ、僕の双子の兄であること。僕が幽閉された理由。そして、アンリのアシスタントとして昼間は働いていること、激務ゆえアンリは21時には眠ってしまうこと。僕は毎日彼を観察した。」

翌年父が亡くなると、アンリはどんどん闇の力を手に入れていった。父の代まで友好関係を結んでいた各界の権力者たちを脅迫し、地位も資金も桁違いに手に入れた。彼らはアンリを恐れると同時に、いつ潰してやろうかと機会を伺うようになった。家を守るためにアンリを倒さねばならない。家の名誉も守らねばならない。

アンリが完全な無罪を勝ち取り、厳重な警護の中、館へ戻ってきた。
その翌日の会見で世間は大騒ぎとなった。逮捕されたショックで、アンリの灰色の瞳は蒼に変わってしまったのだ。悲劇から帰還したヒーローとして、メディアは『Dark Saphir(漆黒の蒼玉)』と騒ぎ立てた。

風に乗って、サファイヤが香りの協奏曲を奏でる。
それは深く蒼く輝き、言葉のように想いを伝えていく。

【掲載製品】
■AGONIST(アゴニスト)
「ブラックアンバー」「ザ インフィデルズ」「ホワイトライズ」「ダークサファイヤ」
各50mL 各¥18,500+税
 
BIOTOPE INC.
tel.03-6427-6424
http://biotope-inc.com/

著者プロフィール

YUKIRIN
YUKIRIN美容ジャーナリスト/香りのストーリーテラー

ナチュラルコスメとフレグランスのエキスパートとして、
「香りで選ぶナチュラルスキンケア」や、「香りとメイクのコーディネート」など提案する他、
香りから着想される短篇小説を連載中。

媒体での執筆・連載の他、
化粧品のディレクション、イベントプロデュース、ブランドコンサルティングなど幅広く活動している。

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