秋から冬へ変わる一瞬の夕暮れ前。太陽は肩身狭げに湿った苔の生えた路を照らす。森は煙る土の香りに満ち、キプロスのモスは雪の予感すら感じさせた。針葉樹の棘、樹木よりこぼれ落ちた栗、毒気すら放つ鮮やかな橙色の茸。その先に歩く一人の男。
男が一歩づつ進むごとに、黄金色の粒子が身体から流れ出し、帯状になってゆく。それはまるで、黄金のマントのようにゆらゆらと揺れていた。邪悪な動物たちはその美しいマントを奪おうと隙をみては飛び掛かるが、実体の無い粒子ゆえ雲のように掴めない。それどころか、粒子を浴びた者は一瞬で呆(ほう)けてしまい、笑みを浮かべて暫し動けなくなる。
やがて男は森の中央の巨大な樹の麓へ辿り着いた。丹念に地面の上を探すと、1本の香りを拾い上げた。”シプレムース”その香りのタッセルを引くと、地の底でディンドンと大きな鐘の音がした。
此処は幻想図書館の入口。館主の帰還を知らせる音だ。
自由に出入りの出来ない六角形の館の中には、幾人もの影が行き来していた。比較的しっかりと輪郭を描いている影もあれば、薄く消えかけている者もいる。この図書館の司書たちだ。
巨木の内側にあるとは思えない程上下は永遠に続き、壁にはぎっしりと書籍が詰められ、中に居ると地上と地下の区別が全くつかない。
館主は服の裾に附着した黄金色の粒子を払い落とすと、朱い革張りの椅子に座り、その日地球上で生まれた全ての「悪意」が載った台帳を拡げた。様々な悪意が開かれた頁から浮き上がり、館内を行き交う人影へ次々と吸い込まれる。影は悪意を吸い込むと僅かに震え、浄化と同時に古いインクのような香気を放つ。香りを生み出すと司書の影はまた1つ薄くなる。
六角形の館の中央には上下に繋がる排気孔が有り、週に1度香りは排気孔から外界へ噴出されていた。濃厚なその香りは、世界中のあらゆる古書の中へ時間をかけ煙のように移動していった。「古書の香り」はこのように生まれ、人々を惹きつける。
館主は台帳を閉じると重い鍵をかけ、長い睫毛を二、三度瞬かせると瞳を閉じた。台帳の表紙に刻まれた言葉は”ビブリオテカ・デ・バベル”。
世界中の悪意は、香りと共に浄化されている。
“わたし”は町の片隅にひっそりと佇む、古い図書館を訪れた。入口から外壁に向け蔦が絡まり、中は仄暗く人の気配もほとんどしない。ここまで不気味では人々が寄り付かないのも無理は無い。
古めかしい重い扉を押し開く。中央のカウンターには老人が座り、物音に濁った眼をこちらへ向けたがすぐ眼を閉じた。少しでもひと気の無い所へゆこうと、二階へ上がる。やはり誰も居ない。陽の光が埃にまみれた書庫を照らしている。
窓の席に座り、自分の心と向き合った。何故、あの女が目に付くのか。何故、自分の方が劣っていると感じるのか。何故、周囲から愛されるのは自分でなくあの女なのか…。落ち込む気持ちと向き合うために此処へ来たというに、憎らしい気持ちがうず高く募る。嗚呼、疎ましい!いっそ…
憎しみの感情が爆発しかけた瞬間、上の棚から古書がバーン!と音を立て落ち、息が止まる程驚いた。落ちた衝撃で開いて転がった古書”レールド リアン”からほろ苦い香りが漂い流れる。オークモス、チュニジア産ネロリ、スイートムスク、アンバー、バニラ…ずっと昔からこの瞬間を待っていたかのようだった。舞い上がった埃は黄金色の粒子となり身体を包む。香りを吸うと、一瞬で憎しみを忘れた。まるで毒気を抜かれたかのように呆け、笑みを浮かべてその場で佇んだ。
やがて、古書の白い頁に斜体文字が走り出した。
「Come with me?」
一歩づつ近づき、ゆっくりとその文字を撫ぜる。唇は動かないが心の中で頷いた。
“わたし”は今日も、この六角形の館の中で本を求めて動いている。ずっと探している本は見つからないが、その本が本当に必要なのかは分からない。それでも心地いい。誰かの悪意を浄化できる術を身につけたから。存在が無くなるその日まで、平穏な世界のために働けるのだから。
これは幻だろうか。幻想図書館はいつでもあなたを待っている。
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