魔法の香り手帖

滴るは君の記憶

1

土埃が儚げに舞う古いアーケード街。在りし日は商人が溢れ、昼夜問わず活気付いていたこの町も、いつしか昼間ですら人の気配が無いほど過疎化し、物静かな老人の店番ばかりが目に付く。

ぼんやりとした春の夜、俺はアーケードの手前にある信号で夕飯のメニューを想像しながら立っていた。突如、磨きあげられた黒い高級車が視界に飛び込んでくる。音も無く幾台と連なりゆっくりと停車すると、立派な身なりの紳士が何人も降り、次々にアーケードの中へ消えていく。あまりにも場違いな光景に、僕は思わず手にしていた林檎を取り落した。

―こんな所に偉そうな奴らが何の用だよ…

思わず毒づき、道路の隅に転がった林檎をよれよれの袖で拭く。まぁ、定職にあぶれ参っている俺には関係のないことだ。それにしても、その翌日も、また翌日も同じ光景に出くわすことになるとは。ある晩、暇つぶしに奴らをつけてみることにした。奴らはどこに行ってるんだ?

栄えた名残からかアーケードはやたらと長い。夜は大抵の店が閉まり、冷たい電球の灯りがぽつりと揺れるだけで辺りは不気味な程暗かった。間もなく日付が変わる時間というに、紳士たちは無言のまま進む。やがてアーケードは突きあたり、その右手にある店に、一人、また一人と姿を消した。

彼らは店に「入っていく」、けれど「出てこない」。確か丸眼鏡の爺さんがやっている古本屋だったと思うが…そんなに広い店だったか?かれこれ10人以上が店に消えた。俺は痺れを切らし、その古書店のドアをギィィィと軋ませながら押した。

…中には誰も居なかった。

いや、正確には丸眼鏡の爺さんは奥の梯子に腰掛け、パイプをくゆらせながら本を読んでいる。入っていったはずの紳士がどこにも居ない。爺さんに向かって話かけようとした瞬間、店主は唇に人差し指を立て、その指をそのまま右へ倒した。背丈より高い本棚が並ぶ小さい迷路のような店内、右奥には変わらず古書が並ぶだけだ。

「上から3、右から7。」

店主が独り言のようにボソリと呟く。右奥の本棚上から3段目、右から7冊目ってことか?…何だ普通の古い図鑑じゃないか。手にとっても何もおかしな箇所は無い。苛立ちを感じながらその本を元の位置に戻そうとした途端、古書はズルリと奥へ引き込まれ、つんのめりながら本棚の裏、つまりは隠し扉の裏へ声を上げながら転げ落ちた。焦る俺とは対照的に空気が一瞬静まる。凜とした髭のウェイター風の男が覗き込んだ。

「いらっしゃいませ。ここは深夜にのみ、特別なお客様のためにだけ開かれる紅茶店です。お客様のお望みのお茶と物語の世界をお楽しみいただけます。」

紳士たちは暗い店内でめいめい赤いソファーに腰掛け、隣りには美しい女が茶を注ぐ姿があった。不思議なのは、その茶の香りを嗅ぎ口にした紳士たちは皆一同に恍惚の表情を浮かべ、満ち足りた顔をしながら眠ってしまうのだ。

滴るは君の記憶

「彼らはその紅茶の物語の中に落ちているのです。いやなに、危険などありませんよ。だって“紅茶”ですからね。」

夢を見ているのだろうか。銀髪のすらりとした女に手を取られ、赤いボックス席に座る。キャンドルが何重にも光りを重ね、目の前で黄金色の茶が注がれた。熟成された最高級のプーアル、眩暈のようなバニラアブソリュート、そしてアンバー…。茶器に口をつける寸前、俺はウェイターに尋ねる。この店は何て名前なんだい?

「ミッドナイト ブラック ティー」


窓辺から外を眺めていた薔薇は、あまりに凛々しいその姿にときめいていた。静寂が森を包む中、朝露に濡れながらその身を焦がし、香りを放ちながら煙となって空へ召されてゆく。どこまでも自由で開放的で、そして刹那の姿。

―私もあんな風に自由に空へ昇れたなら…

3

毎朝、薔薇はうっとりと甘い疼痛(とうつう)に酔いしれながら、はたと自分の姿を見下ろしては溜息をつく。あと数日も経てば、私の足許は水の中で変色し腐敗し、花弁の色は褪せ、運が良ければはらりはらりと身を散らせるのが精いっぱい。散る事も出来なければ、うな垂れた首を摘ままれ捨てられてしまうだろう。
周囲の薔薇たちはこの運命を何とも感じていない様だった。意志など持っていないかのように。私はこの身がまだ美しいうちに、どうしてもあの人の側へゆきたい。

ある晩、薔薇は月を見つめながら強く願った。

―月よ、お願い。この命をあげるから私の姿を変えて。あの人の傍に行かせて。

月はまるで返事をするかの様にきらりと光り、その姿をサッと雲の間に隠した。すると、1本の輝く蒼い香となって窓辺に舞い降りた。空からは月が消え、星たちはひそひそと囁き合いながら静寂に煌めく。

月の香は光を放ちながらじりじり灰となりゆく。そして誘うような香りの煙で薔薇を包んでいった。薔薇はその首をもたげ、月の香に自らの花びらをくべてゆく。瞬く間に赤い花びらは黒く焦げ、やがて薔薇は痛みで意識を失った。

4

ふと目を覚ますと、薔薇は自分が窓の外に居ることに驚いた。命が溶け出すような激しい恋の影は赤い香に姿を変え、憧れの君の隣で共に燃えていた。二人は重なり合うように身を寄せあい、やがて灰となって朽ちるだろう。束の間の愛に身を委ねて。

辺りには朝露に満ちた甘い恋の香りが漂い続ける。余韻は永遠となった。

5


1941年、少年はまだ見ぬ旅路と世界の姿に心を躍らせていた。父が「今回はこいつを連れて行くことにした。」と言った時、天にも昇る気持ちになった。

このティー・クリッパー(お茶を運ぶ帆船)は、父が世界中の航海を経て仕入れた様々な高級品を英国の港へ届けるために作りあげ、波間を力強く進み続け港を目指す。異国から届ける品はどれも貴重でエキゾチック。ナツメグやナツメグの皮、ダチョウの羽に象牙、シンハラ族によって木箱に詰められた数百トンにもなる高価なお茶、刺激的なスパイス、輝く黄金の極楽鳥、豊富な種類の葉巻…。

正直なところ、僕にはその価値はまだピンとこないが、父がとても最先端の仕事をしていると、行く先々で感じ誇らしかった。何故ならば、荷を届ければ父は必ず出先で歓迎され、立派なスーツを来た男たちが父の肩を抱き褒め称えたからだ。

「一緒に行くだなんて心配だわ…」と出かけに渋るような表情を見せた母がふと脳裏に浮かんだが、これから先への期待に呑まれ瞬く間に消え去る。

夜の闇が押し寄せる頃、父に連れられ船員皆と船室で食事をとることにした。基本的には積み荷に陣取られているものの、「快適な寝食こそが長い船旅を遂げる」という父の信念が反映され、古いながらも美しい食堂が設計されていた。旅先で待つ重要な相手もここに入れ、商談にも使っているようだった。

6

グレープフルーツのフレッシュジュースや、いちぢくを使ったミルキーなジューシーサラダ、保存用に加工された肉など、品数は多くないものの船内で食すには十分すぎるほどだった。

「おまえも飲んでみるか。」

脚をぶらつかせながら座る僕の前に、父は白い茶器を置く。そこへ静かに紅茶を注いだ。琥珀色の美しい液体。最後に滴り落ちる1滴までが美しい。煙るような香りは、父が時折楽しむ葉巻のような燻した匂いがする。この茶の確かな味に惹かれ、父は母国へ届けているのだ。何だか急に大人になったような、認めてもらえたような、くすぐったい気持ちになる。

7

ソルティな風の香り、苔のような床の匂い、ニスで仕上げられた美しいこの帆船「LOTHAIR(ロタール)」。あの日の父はもう居ない。僕は大人になり家族を持ち、父は老いてやがて船を降りた。だから僕は代わりにこのフゼアな香りを旅に連れてゆく。

8

貴重な素材を求め、僕は異国の熱帯地域に降り立った。生い茂る緑の葉から雫が滴るのを見た。それはまるで、あの日の紅茶の最後の一滴。

父のスピリットはあの一滴に宿っている。絆は確かに受け継がれた。

9


…茶が注がれる音がしてふと目を覚ます。
あぁ、そういや紅茶の持つ物語の中へ落ちていたんだ。どのくらい眠っていたのだろう、そろそろ帰らないとな…。よろめきながら入口を探す。俺が入ってきたのはこの辺りじゃなかったか…?ウェイターの姿はどこにも無く、警告のような甘い香りがたちこめていた。

壁にあったはずの切れ目は無く、手探りで進んでもどこまでも暗闇が続いていた。いつしか赤いソファーや美しい女たちは後方へ消え、壁に右手を当て這うように進む。不意に床が抜け奈落の底に引き込まれるように落ちた。

自分の叫び声と共に、車のクラクションで目を開く。夜明け間近な街の空。薄曇りの空気。ここはロンドンの街角だ。ふと気配を感じて右側を見る。そこには1つの香りが凜と立っていた。数年前、他の若者たちと同様に田舎を出た後ろめたさが、こんな夢を見させたのだろうか。

「ミッドナイト ブラック ティー」

そっと呟いてみる。
満天に散る追憶の夢。
夜が溶けて流れ出す魔法の言葉。

10

【掲載製品】
ジョー マローン ロンドン「ミッドナイト ブラック ティー コロン」175mL ¥43,000+税 / ジョー マローン ロンドン お客様相談室 tel. 03-5251-3541

MARIAGE FRÈRES「THÉ APRÉS L’ORAGE」、「THÉ DE LUNE」 約50本入 お香立てつき ¥3,000+税、小 ¥1,200+税 / 「FALL IN LOVE」約50本入 お香立てつき ¥3,400+税、小 ¥1,500+税 / MARIAGE FRÈRES 銀座本店 tel.03-3572-1854

ペンハリガン 「ロタール オードトワレ」100ml ¥22,500+税 / ブルーベル・ジャパン株式会社 香水・化粧品事業本部 tel.03-5413-1070

著者プロフィール

YUKIRIN
YUKIRIN美容ジャーナリスト/香りのストーリーテラー
ナチュラルコスメとフレグランスのエキスパートとして、
「香りで選ぶナチュラルスキンケア」や、「香りとメイクのコーディネート」など提案する他、
香りから着想される短篇小説を連載中。

媒体での執筆・連載の他、
化粧品のディレクション、イベントプロデュース、ブランドコンサルティングなど幅広く活動している。

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