CheRish Brun.|チェリッシュブラン

私のごきげんな毎日

春風がこの恋を知っている

魔法の香り手帖

1

鮮やかに晴れた空から雨が降り注ぐ。芽吹いたばかりの緑を試すように強く叩きつけ、次第に足元の土を溶かしてゆく。

「迷っちゃったな…。」

小さく溜息をつくと、私は髪から雫を滴らせながら小走りに駆け、緑の中に突如現れた紅い屋根の家の軒先へ滑り込んだ。此処で少し待たせてもらえば、天気雨などすぐに止むだろう。高校生活最後の春休みに訪れた親戚の別荘から、近くの花屋へ使いを頼まれたものの、土地勘が無いゆえ路を間違えてしまったようだ。

ふと、何処からか柔らかい匂いが漂うのを感じた。まだ青く仄かな甘い香り。誘われるように私は軒先を伝い、興味本位でその家の側面に沿って歩く。2角曲がった時、まるで絵画のような光景に目を奪われた。

辺り一面、金色(こんじき)に光るミモザが覆い尽くしていた。
私は思わず瞬きすら忘れ、瞠目(どうもく)したまま固まる。その庭はミモザの木が鈴なり、黄色い綿帽子たちが裾野を広げ、天気雨に濡れて光っていた。風に揺れる度、少し青く香り立つミモザの香りに酔いしれる。

2

「君、だれ?」

声と共にミモザの影が揺れ、私はビクリと身体を引きつらせた。木々の間から一人の男の子が現れた。薄茶色の髪に透き通るような肌、すらりとした身体は乳白色のつなぎに包まれ、無造作に掴んだミモザの枝と鋏を手にしている。私よりは少し年上かな…?深い群青色の瞳が大人びて見えた。

「勝手にごめんなさい、花屋へ行こうとして迷ったみたい。」

彼はミモザの棘を切っていたのだと言う。弟たちが無造作にミモザに触れて棘で怪我をしないようにと。その場でいくつかの枝を切ったかと思うとミモザの束を新聞で包み、ポケットから細いフューシャピンクのリボンを出すと彼は器用にくるりと巻き付け、キュッと蝶々結びをした。

3

「はい、あげるよ。これを持って帰れば花屋に行ったのと同じだろ?」

そう言って少しからかうように目を細める。花束を差し出した彼の腕からコロンがふわりと風に漂う。甘いミモザ、香り立つ花々と蕩けるクリームのようなスパイス…眩暈に時めく。この人にまた会いたい。

「春の間はここに居るよ。君こそ迷わないと来られないだろうけど…。」

見透かした様にくすくす笑う睫毛が光り、彼の瞳から目が離せなくなった。
ミモザの恋は始まったばかり。


始まりの合図、窓の外から鳥の啼く声が美術室に響いた。

彼女は少し姿勢を正すと、像を模写した絵の頬に影を加えてゆく。穏やかで静かな時間。2人の筆が画布に滑る音と呼吸だけが広がる。

僕たちは子供の頃から共に過ごし、大学に入っても変わらず仲は良いが、特に変わることない距離を保ちながら成長した。稀に「あいつに誰か好きな奴がいるか聞いてくれ」と聞いてくるクラスメイトも居たが、僕はその度に物好きも居るもんだと本気で思っていた。僕の知る限り、彼女はとにかく大人しく誰かと話す姿もほとんど見たことがなかった。専らの興味は美術のみ、恋する対象は模写のための石像くらいではないだろうか。

今日も僕らは互いに寡黙で、夫々の絵にだけ集中し、それでも傍に居ることに違和感は無く、寧ろ心地良さを感じていた。

「少し風入れていい?」

どうせ反対しないだろうと答えも聞かず窓際に座る彼女の横を通り、僕は出窓をほんの数センチ開け元の席に戻った。沈黙は僕らの中ではYesの証拠だった。

その時、窓の隙間から突風が舞い込み、彼女の前髪が風に躍った。まるで春の訪れに歓喜するかのような風だった。彼女は思わず顔を窓から背け、ふいに僕と目が合う。
何故だろう。見慣れた筈の彼女の瞳から、その時僕は目が離せなかった。まるでスポットライトを浴びている様。風の調べに甘酸っぱいローズとブラックカラントの香りが舞う。彼女はこんな香りだっけ?ピンクペッパーが目の前で弾け、僕はハッとした。

4

いつの間にか大人に成っているんだ。彼女の白い額も、横顔も、香りも。

反射的に手を伸ばし、彼女の右手首を掴む。細い骨と滑らかな肌の感触は明らかに女性だ。こんなに傍に居ても僕には見えていなかった。
彼女は驚いた様に僅かに目を見開いた後、そっと睫毛を伏せて瞳を閉じた。何も言わない。沈黙は…Yesだ。

僕は天を仰ぐ様に唇を寄せた。彼女の香りのヴェールに包まれる。
一輪の薔薇が頬を赤らめた。

5


“思ったよりも揺れるな”
山道を走るミニバンの後部座席で、僕は肩を大きく上下させた。
うたた寝をする左右の女性は窓際に頭を傾けて眠りこけている。年上の友人たちの車で最年少の僕は、後部座席の中央という役回りを仰せつかり(?)、美しく晴れた午後とは逆に鬱々とした気分だった。 運転席と助手席に座る男女はとかく寡黙な2人で車中に会話は無く、BGMが暢気に上滑ってゆく。

「ごめんな、巻きこんじゃってさ。」

運転席の男がぽつりと呟く。美大を目指す僕に絵と勉強を教えてくれている学生だ。我が家所有の田舎別荘を、大学の仲間たちと絵を描く合宿がてら春休みの間貸して貰えないかと申し出て、両親は先生のためならと快諾し、何年も使っていない屋敷の”掃除役“として僕を派遣したのだ。

車はベルガモットの木々の小路を往く。子供の頃、家族で別荘へ向かった春を懐かしく蘇らせる。芽吹きのような僕はこの香りが大好きだった。

6

懐かしさに目を閉じていると、カーブで車体が不意に大きく揺れ、左に座る女性が僕の肩にこめかみを乗せた。窓の外から舞い込む鮮やかで少しビターなシトラスノート、肩にもたれる彼女の髪から香るジャスミンやラベンダー、そしてトランクの底に附いた土の匂いがカルテットを奏で始める。
その香りは春の陽だまりの様に澄んでいて、細かい襞(ひだ)となり漣の様に僕の鼻腔をくすぐった。

「いい匂いね。」

急に生温かな吐息が左耳に忍び込む。眠っているはずの彼女が囁いたからだ。僕は何と答えて良いのか分からなくなり、目を閉じたまま聞こえない振りをした。眠っているふり。

彼女は僕のシャツの左袖をツンと軽く引っ張る。えーと、僕は寝ている僕は寝ている。

「起きてるくせに。嘘つき。」

走るミニバンの騒音に隠れるような囁きは、少し意地悪そうに微笑む瞳を想像させた。目を閉じていると、彼女が頭を置く肩はどんどん熱を帯び、透き通るような眩い香りはどんどん強くなった。車に乗り込む時には先生の友達の大学生としか思わなかった彼女の、白いフリルシャツの袖やミントグリーンのスニーカーを履いた脚を思い起こさせた。

不思議だった。意識しないと思えば思う程、身体は意識する。
香り、髪、体温、声、吐息、記憶の断片…。
嘘をつくのは、あなたに興味があるという1つのジェスチャー。

残照の中、僕は恋に堕ちかけていた。

7


【掲載製品】
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アニック グタール 「ローズ ポンポン オードトワレ」50ml ¥15,200+税、100ml ¥20,100+税/ ブルーベル・ジャパン株式会社 香水・化粧品事業本部 tel.03-5413-1070

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美容ジャーナリスト香水ジャーナリストYUKIRIN
ナチュラルコスメとフレグランスのエキスパートとして、
「香りで選ぶナチュラルスキンケア」や、「香りとメイクのコーディネート」など提案する他、香りから着想される短篇小説を連載中。

媒体での執筆・連載の他、化粧品のディレクション、イベントプロデュース、ブランドコンサルティングなど幅広く活動している。
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