穏やかな午後、集められた客人は皆、緊張した面持ちで館の主(あるじ)が現れるのを待った。“sub rosa(サブローザ)”ダイニングルームの天井に飾られた薔薇の花。他言無用、許された者のみが享受する秘密の共有。
重く音を軋ませながら扉が開くと、顔色の冴えない中年の男に介添えされ、車椅子の老紳士が姿を現す。ゆっくりと窓際へ寄り、大きく息を吸うと話し始めた。
「今宵、時が逆流する。速く進もうとする者は後退し辿り着けないだろう。他人より速く老いた者は、今宵だけ本来の姿を取り戻す。誰もその姿を見てはならぬ。探してはならぬ。」
傍聴者の前にローザの小瓶が配られた。その香りを全身に纏うことが、この秘密を守る血判状ということか。レッドベリー、シナモン、クローブの、華やかでスパイシーな香りが部屋中に立ち込める。皆が香りに酔いしれ目を離すと、老紳士たちは消えていた。まるで煙のように。
夕暮れからともり始めた灯りは、噂話の合図だ。
あの館では2年前、娘が駆け落ちしたのさ。いや、父親が醜聞の怒りにまかせて追い出してしまったと聞いたよ。あんなに薔薇の豊かな庭だったのにね。父親は窓から飛び降りたけど、奇跡的に生き延びたのが救いだね。娘さんの帰りを待っていたいのさ。それにしても近頃突然あの館を買い取った老人は、親戚なのかね。そういや、あの頃男の子も居なかったかい?
街を流れる風の温度、重なり合うグラスの音、バニラの余韻…街をきらきらと動かす”グランソワール”。会話から邪気を払うように安息香が包み込む。シスタスラブダナムの美しいダークヴェールに包まれて夜は更けてゆく。
館の主から「香りを作って欲しい」と招かれたのは3日前のこと。サブローズの場に居た紳士のひとりは、使い古した黒革の鞄からチュベローズを取り出した。グラースから戻る数日の間、古い革に沁み込んだチュベルーズは抗い難い芳香を放っている。
この感動的な香りを主の老人に伝えようと、ひとり回廊へ出た。灯りの無い真夜中の館は不気味で、先の部屋から漏れる一筋の灯りに安堵を覚える。灯りはまるで黄金の砂が流れこぼれるかのように輝いていた。紳士は何気なく隙間から覗き見た。
そこには透き通るように白い肌とプラチナブロンドの髪の美しい少年が横向きに立っていた。まるで存在そのものが発光しているかのようだった。唇に微かな微笑みを携え、長い睫毛を瞬かせている。あれは精霊”ADJATAY(アジャタイ)”だろうか。
見蕩れてチュベローズを床に落とした僅かな音で、少年がハッとこちらを見る。先ほどとは別人のような鋭い眼差しにゾクリとすると同時に、部屋の中から強烈なレザーと花の香りが押し寄せ、紳士は気を失った。
あの瞳、何処かで見たような…
昨夜の事は夢か幻か。
紳士はきちんと自分のベッドで目覚め、チュベルーズは鞄の中に戻っていた。
食堂へ案内された紳士は何気なく辺りを見渡す。そして、シャガールの絵を背景に座る館の主と目が合った瞬間、紳士は一瞬で落雷に打たれた。昨夜、あの部屋で見た瞳だ。瞳の奥に宿る深い悲しみ。
あの少年がこの老人だとすれば、「他人より速く老いた者」という何かの比喩のような言葉に合点がゆく。街から聞こえる噂話が1つの仮説を生む。
恐らく、館の主と名乗るこの老人は、本来17歳くらいの少年だろう。2年前何かの事情で館を出た娘を憂い、父親は事故か意図的か命を絶とうとし助かった。その父親は老人を介添えていた中年の男ではないか。館には少年も居たと聞く。ではこの老人こそが少年であり、娘の弟だったのではないだろうか。あくまで想像でしかない。でももし、彼が命を、寿命を父親に注いで、代わりに速く老いているとしたら…
紳士の目から一筋の涙がこぼれる。そして、老人の前に1つの香水を置いた。レモン、ラバンディン、柔らかなアンバーやムスクが凛と優しく香り立つ。
「あなたにもいつか、朝が来ます。穏やかで優しい朝がきっと。」
朝の光を映す老人の黒い瞳が、黒曜石のように輝いた。
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