サント マリー ド ラ メールの海辺、低い岩と平行して続く長い砂浜。プロムナードには黒い街頭が等間隔に並び、晴れた青い空はどこまでも遠い。
老人はベンチに腰かけ、小さな手帖を開いた。茶色い革の使い込まれた手帖だ。
「あぁ、また書き足さなくてはならんな。あいつはすぐ出ていこうとする。」
老人はしわくちゃの唇でそう呟いた。
目を閉じれば、想い出は鮮やかに走り出す。サラン ド ジローの町を通り過ぎ、海の方向へ向かうと見えてくる塩の山。塩田に広がる赤紫の水はこの土地の絶景でもある。そして、果てしなく広がる稲田。太陽がきらきらと反射する、カマルグの美しい田園風景。
何故こんな美しい土地をから、あいつは離れていこうとするんだ。小さい頃から、あいつはいつも60~70点くらいの結果で満足する節があった。すぐ俺に褒めて貰おうとした。でも、本当は100点、いやもっとそれ以上を目指せる奴なんだ。だから俺は褒めなかった。むしろ責めた。何故そんなことしかできないんだと怒鳴った。あいつはだんだん萎縮していった。いつしか俺に報告しない事柄が増え、その度に報告しないことを俺はまだ怒鳴った。全てを把握していないと気が済まなかった。心配なんだ。あいつに失敗させたくないだけなんだ。俺はそうやって生きてきた。
俺が死んだら、あいつは悲しむのだろうか。
それとも厄介者が居無くなって喜ぶのだろうか。
駄目だ。居無くなったら、誰があいつを守ってやるのだ。そのためにこの手帖にはいろんな決まりを書き込んでおかねばならん。
ピンクフラミンゴが大きく羽を広げると、どこからかパウダリックなライスの香りがクリーミーに漂ってきた。色にすれば乳白色。アクアティックなフローラルノートに、ミルキーなサンダルウッド。風が稲穂を揺らし、小刻みに揺れる永遠のような時間。
もうすぐライスフェスティバルか。白い馬や山車が行進する様子が目に浮かぶ。もう我々全員が集まれることは無いだろう。夢の中以外で…。
日が暮れ始め、海岸沿いから人がどんどんと引き上げていく。辺りが夕闇に包まれても、老人は変わらぬ姿勢で動かなかった。
シモンは広大なラベンダー畑の中で、大きく深呼吸した。芳醇な香りと温かさを体内に取り込む。ラバンディンのアブソリュートに、ジュニパーベリー。凛とした姿に、レザーとアイリスとスパイスが深く香る。この土地ならではの美しい香りに酔いしれる。
母は僕が10代の頃に、このプロヴァンスへ出ることを許してくれた。調香師は、始めるには若い方が有利な世界だ。しかし、自由であることには、責任が生じるものだ。母は僕を信じてくれていると思うからこそ、身近で管理されないことに甘んじてはいけない。
母は気が強く、華やかで、完璧を求める人だ。僕はそんな母を素直に尊敬していたし、時に寂しくもあった。それは自由すぎたからだ。勉強をしろと言われたことは1度もないし、門限もなければ、誰とどこに遊びに行っても何も言われなかった。友達からは「おまえの家、ラクで羨ましいわ。」とよく言われた。
13歳になった夜、お小遣いはもう渡さないと言われた。僕が驚くと、自由に好きなことで自分のお金を稼いでいいからと。稼ぐと言ったって、所詮は13歳だ。何をしたらいいのか分からない。
その日の夜中、下の階から響いた大きな声で目が覚めた。そっと様子を見に行くと、母がおじいちゃんに怒鳴られていた。母は何も言い返さず、小さく震えながらじっとしていた。それはいつもの母とはまるで別人のようだった。僕が知らなかっただけ?いつもこんなことがあったんだろうか。
「だから、おまえはダメなんだ!」
そう言っておじいちゃんは手の甲で母の頬を張り倒し、母は床に倒れた。僕は恐ろしくて動けなくなり、おじいちゃんは怒りを込めた足音を立てて家を出ていった。慌てて母に駆け寄ると、母は気まずそうに苦笑った。
「気にしなくていいのよ。昔からそうなんだから。おじいちゃんはね、私を思い通りに出来ないと腹が立って暴れるの。」
「む、昔から?お母さんが子供の頃から?」
「そうよ。だからいつもの事なの。でも大丈夫。私も慣れているから。シモンにお小遣いをもうあげないと言ったでしょ?それはね、お母さんもおじいちゃんから離れて暮らせるように、事業を始めようと思っているの。お父さんが早くに亡くなってしまって、あなたを育てるためにお母さんはおじいちゃんを頼らない訳にはいかなかった。だけど、できれば離れて暮らした方がいいに決まっているし、おじいちゃんのお金にも関わりたくないの。だから、あなた自身にも若いうちからお金を稼ぐ手段を考えていってほしい。そしてできるだけ早く独立しなさい。おじいちゃんから離れた土地でね。心配なのよ、いつかあなたにまで手をあげるんじゃないかと。」
「お母さんはおじいちゃんとずっと一緒にいるつもりなの?」
「どうかしらね…。あなたを送り出して、私も事業が軌道に乗れば離れると思うわ。」
「13歳で独立なんて無理だよ。」
「もちろんそれは無理だと思うけれど、家の手伝いをするとか、お母さんの会社でアルバイトをするとか、働く方法はあるわ。」
それから2年後、僕はプロヴァンスに来た。母も別の街へ越していった。僕は早く一人前になり、母を迎えに行きたいと思う。
マリーは届いた荷物をしばらく開けずに居た。警察から連絡が来て、父が死んだと聞かされた。まるで眠っているようにベンチに腰掛けていたので、何日も誰も気づかなかったのだそうだ。いつか来ると思っていた日、いつまでも来ないような気がしていた日。カマルグまで来てほしいとのことだったが、多忙のため遺留品を送って欲しいと言ったら、警察も驚いていた。まだ…まだ顔を見れる気がしない。
しかしその荷物を放置して1週間。もう開けない訳にもいかない。仕方なく開封すると、茶色のシワシワの手帖とペンが入っていた。こんなの父持っていたかしら?手帖は紙ごとゴワついていて、少し湾曲して形状記憶されており、潮風に長時間さらされていたようだった。
2年前、私はブルターニュに引っ越してきた。カマルグを離れることは、父には内緒にしていた。少しずつ準備を始め、ある夜一気に決行した。
父は、私が子供の頃から全てを否定してきた。テストでいい点をとっても100点でないと怒られたし、父に認めてもらえることを無意識に探すようになってしまった。そしてチャレンジし、その度に気持ちはズタズタになった。
結婚して、ようやく父の管理下から離れられたと思った。しかし数年後、息子が5歳の頃に夫が亡くなってしまったことで、私は父に金銭的に頼らざるを得なかった。父は地元の名士だった。私が厳しく管理されて育ったからといって、息子は自由にしてやりたいと思った。むしろ自由を与えて信じることが良いと思っていた。当然、父とは意見が食い違い、私は度々怒鳴られ、手を挙げられる機会も増えていった。傷や痣を隠すため、私はパートにも出れなかった。よって父の経済力に頼ることしかできない悪循環が生まれた。
その父が死んだのだ。私が逃げ出してから2年経った今。噂では、私が逃げた後、随分と荒れたと聞いた。誰彼構わず怒鳴り散らし、周りから人は去っていった。お金はあっても、誰にも愛されず、一人で死んだ。
私はそっと手帖を開いた。懐かしい潮風の匂いがする。私が日々身にまとう、ブルターニュの海の香りとはまた違う。カマルグの匂いだ。手帖には細かい字でびっしりと綴られていた。そこにあったのは、最初は1行日記。私が居無くなってから書き始めたものだった。街のあちこちを探して見つからない様子と、何故逃げてしまったのか自問自答を繰り返していた。
1年分が過ぎたあたりから、内容は変わっていった。まず字が非常に乱れている。文章もめちゃくちゃで、同じことを何度も書いていたり、何かわからないものの絵を描いていたりする。明らかに父は精神状態に支障をきたしていた。そうかと思えば、急にまともなことを書いていたり、私がいなくなったことを忘れているような文章もあった。
強い後悔の念が襲ってくる。私が近くに居てあげれば、こんな風にならなかったのに。いや、私だって精一杯耐えてきた。私だっておかしくなりそうだった。でもたった一人の身内なのに。一人で逝かせてしまった。
私はぐちゃぐちゃな感情で最後のページを見た。
『マリーはとても優秀な子だ。あいつならもっと大きな夢も叶えられるだろう。でも心配だ。純粋で人を信じやすい。騙されるくらいなら、私が側にいて守ってやらねば。どうしてマリーはいつも怯えているのだ。私から離れようとするのだ。いや、分かっている。私が本当のことを言えないからだ。ただ愛していると言えないからだ。私は財産を寄付しようと思うが、あの子は賛成してくれるかな。いやいやダメだ、あの子が離れていかないように譲ってやってくれ。いぁけぶしけもぐげねか』
最後はもう意味のわからない文字が羅列されていたが、おそらく意識が消えかけていたのだろう。私は涙が止まらなかった。娘を深く愛しながらも愛し方を間違えた父、毒親だと決めてかかって苦しみつづけた私。どこですれ違ってしまったんだろう。母が生きていてくれたら違ったのだろうか。
私は手帖を置いて、家の外に出た。海沿いの砂丘に咲く花を見ながら、ヨード香を含んだブルターニュの海の香り、激しい波しぶきを感じて、泣きながら空を見上げた。
空はカマルグの塩田のように、赤紫の色をして夕暮れを待っていた。
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