暗闇は恐くない。誰もが真実の顔を晒すから。真実の顔を、恥ずかし気もなく晒すことができる暗闇は、天国なのだ。
僕の母は、いつも疲れた顔をしていた。父はほとんど家に寄りつかなかったし、帰ってくれば家に僅かにある金を掴んで出ていった。母は泣きながら、夕方には夜の仕事へ出かけていった。電気をつけて行ってくれなかったから、10歳の僕はずっと暗闇の中で母の帰りを待った。酔っぱらった母が夜中に帰ってきて電気をつけ、化粧も落とさず寝てしまうこともあった。そんな時、僕はとても母を哀れに思った。
時折母は、暗闇の中に帰宅して、そのまま誰かと寝室へ消えた。暗闇の中で息遣いが聞こえ、一通り収まると、小さな声でコソコソと話す声がして、誰かが外へ出ていった。そんな時も、僕は暗闇の中だから嫌な顔ができた。
暗闇の中に自由を求めるようになったら、嗅覚がとても強くなった。サイプレスやジュニパーベリーの香り、天国のようなサンダルウッド、夢のしじまのラブダナム。僕は暗闇の香りに酔いしれた。
「いつも無表情で薄気味悪い子ね、」
年齢が上がるほど、母は気持ちの悪いものを見るような目で僕を見るようになった。僕は陽の光の中では、きっと同じ表情をしている。それは影と同じ。でも僕は暗闇の中なら存在感を放つ影だ。
中学を卒業すると同時に家を出て、親の仕事の都合で一人暮らしを始める女の先輩の家に転がり込んだ。彼女とは恋人ではなかったが、住み始めることで付き合い出したようなものだった。昼間の僕の無表情は、実は細かい表情の変化が面白いのと彼女は言ってくれた。張り付いたように動かない僕の顔にもほんの少しだけ表情が生まれているのだと言う。そんなことを言われたのは初めてだった。
彼女は高校へ通い、僕は毎日遅くまでバイトをした。帰宅した時、家には美味しそうな匂いがしていて、髪を後ろに縛った彼女がくるりと振り返る。
「お腹すいてる?カレー作ったの。」
僕は嬉しすぎて、無表情のまま固まってしまう。
「何か嬉しそう。食べないの?」
僕は慌てて、顔を上下に振って頷いてみせた。無表情のままで。
うまく感情を表現できないまま僕は大人になったが、彼女の肌から漂うチュベローズとオレンジブロッサム。矛盾のヴェールに包まれて、幸せな時間を過ごした。僕の中から重たい暗闇がどろりと音を立てて流れ出そうだった。それが幸せなのか、自分を見失うことなのか分からない。分からないけれど、嬉しい。そんなパラドックスなら歓迎じゃないか。
1年程過ぎた、ある夏の夜。
彼女は高校へ行ったまま、帰って来なかった。高校の後は塾の予定だった。10時半頃、僕は自転車で塾の前へ行ってみたが、中は暗く、人の気配も無かった。携帯も出ないし、メッセージも未読のまま。こんな時、同じ学校に通っていなかったことを後悔するなんて。彼女の友達や教師が分からない。まして、親の連絡先も知らない。僕は、高校と塾の間を何往復もして、近所の公園やコンビニなども見て回ったが彼女は見つからなかった。0時をまわり、家に帰っているかもしれないと戻ったが居なかった。
また、母を待っていた時の暗闇が僕を包み込む。彼女の居ない家は、何故こんなに静かなのだろう。一睡もできないまま朝を迎え、チャイムが鳴り慌ててドアを開けると、スーツの男たちが立っていた。僕は訳が分からないまま、彼らに連れられて行った。警察だった。
昨夜の僕は、彼女を探していたこと、その後は家で待っていたことを話した。誰にも会った記憶は無かったが、高校の前ですれ違ったサッカー部の連中が僕の姿を見ていたらしく、嘘ではないと判断された。捜査員たちは目配せしながら立ち上がり、お帰りいただいて大丈夫ですと言った。
「…あの、彼女は?」
勇気を出して聞いたが、親族以外には話せないと答えてもらえなかった。
僕が知ったのは、数日後のニュースだった。彼女は塾の隣の空き地の奥に、裸体で遺棄されていた。僕はその空き地の前も自転車で通ったはずなのに、あの日気づいてあげられなかった。もしかしたら犯人とすれ違ったかもしれないのに、何も…何も…。僕は大きな暗闇に飲み込まれた。二度と光など射さない。
「先生、ちょっとお時間良いでしょうか?」
事務局員から声をかけられ、僕は立ち止まった。表情を変えず「はい」と答え、教師の待機室に入った。
「先生の無表情な講義、実は今、生徒たちにすごくウケてるんですよ。一切表情が変わらないのに、的確で整理された分かりやすい教え方が面白いって!来月から講義数増やしていきたいと思いますので、よろしくお願いしますね。」
「そうですか。僕は増やしていただいても別に構いません。」
彼女が死んでから、7年が過ぎた。
事件の後、彼女の家を出た僕は、貯めていたバイト代を全て母に渡し、1年間だけ実家に住ませてくれと頭を下げた。僕はバイトを続けながら高卒認定試験を受け、通信制の大学で勉強を続けた。卒業後は迷わず、彼女の通っていた塾に就職した。
未だ犯人は捕まっていない。彼女は塾の後に事件に遭った。最後の手掛かりはきっとこの塾にある。僕は塾講師になってから1年間、様々な事を観察した。講師は全部で10名、事務局員は交代制で2名、塾長1名。他に館内に出入りしているのは清掃業者と、教材の営業マン。授業は21時には全て終わる、居残りをする生徒もいるが、基本的に22時には館内を閉める。だからあの日、22時半に中が真っ暗だったことも当然だ。
塾のビルには裏口があった。毎朝、掃除業者が出入りするが、夜は鍵がかかっている。鍵は講師待機室で保管されていた。仮に講師が犯人だったとして、裏口の鍵を盗み、彼女を拉致し裏口から出て鍵を閉め、犯行の翌朝何食わぬ顔で出社し鍵を戻すことも可能だろう。さらには、裏口を出てビルに沿って歩くと、破れたフェンスから隣の空き地に入ることもできると分かった。その間、誰に見られることも無い。彼女を運ぶこともできただろう。
事務局員が帰宅した後、僕は当時の勤務記録も調べた。事件後に辞めている講師が居たが、それとなく塾長に聞くと引き抜きのようで関係は無さそうだった。あの日、21時まで講義があった講師は3名。そのうち男性は2名。しかし、当日彼女はどちらの授業も受けた履歴が無かった。いや、消されたのか…。1年間、これという証拠は見つけられずにいた。
…そういえば、来月授業増やされるんだったな。
僕は、勤務ボードに“在席”というマグネットを置きながら思った。ぼんやりしていたせいか、マグネットがうまくボードに張り付かず落としてしまい、コロコロと転がるマグネットを追いかけた。ある机のところで止まり、拾い上げようとした時、机の下に何か畳まれた紙が挟まっているのが見えた。かがんでみない限り、見えない位置にそれはあった。手に取った瞬間、僕は頭を殴られたような衝撃を受けた。彼女の匂いだ、チュベローズとオレンジブロッサムの。僕の暗闇で研ぎすまされた嗅覚は本物だ。彼女の匂いに間違いない。
おそるおそる広げてみる。たどたどしい文字が書いてあった。
「助けて 私に付きまとっている講師Yか Yの女がここに来る」
これは…彼女が殺される直前に書いたもの…?だとしたら、Yって…。
「そんなところにあったんですね。」
凛とした声が響き、僕は思わずビクッと身体を強張らせた。机の下からゆっくりと顔を出すと、すぐ横に事務局員の女が立っていた。
「先生って、ホント無表情ですよね。何考えているんですか?私があの女の子を殺したかもってこと?えぇ、私が首を絞めました。“犯人の証拠を残したからいずれバレるわよ”って最後睨んでいましたけど、そんなところに紙を仕込んでいたんですねぇ。Yは怯えていたけど、服を脱がせて運ばせました。怯えるくらいなら、私だけを見ていればよかったんです。彼の授業受講者リストからあの子の名前を消して、新しい就職先も用意してやったのに。私、あなたのこと当然知っていましたよ。就職してらした時、きっと犯人を捜す気だわって思っていました。だからね、ずーっと見張っていたの。」
そう言い終わると、女は隠していたナイフを振りかざすと、もの凄いスピードで飛びかかり一気に僕の首を切った。鋭い痛みとウソのように吹き出す血で真っ赤に染まりながら、僕は意識を失っていった。女は血まみれで笑っていた。まるで女帝のような笑みだった。
目が覚めると白い天井が見えた。と同時に、強い痛みが走る。そうか、僕は死ななかったんだ…。
その後の事情聴取で分かった。女は出社してきた塾長たちにすぐ取り押さえられ、逮捕された。Yという講師は、事務局員の女に手を出していながら、受講しにきた彼女に惚れ付きまとっていたそうだ。女は、事件の後からずっと笑顔をやめないそうだ。あいつも多分、暗闇以外ではその顔しかできなくなったんだろう。
僕は目を閉じる。暗闇の中から、彼女が姿を現し、僕の頭を撫でてくれる。
ねぇ、僕が眠るまで、そばにいてくれないかな。
君のまなざしを、感じながら眠りたいんだ。
せめて、朝の光が射すまで。
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