魔法の香り手帖

愛は深い森に眠る

1

強い風が吹いていた。この身をすくい上げるような大きな風。女は一歩、また一歩と風に逆らい進んでゆく。

目的の古い教会は森の奥深くにあった。敷地を取り囲む水路には、時おり何かが跳ね藻が泳ぐ。橋は渡り終える頃、大きな音を立てて崩れはじめ、目の前で途絶えた。来た道ももう戻れない…それでもいい。私は罪を葬りに来たのだから。

2

やっとの思いで教会の扉に辿り着き押し開く。唖然とした。
教会の中には、成長し過ぎて建物を押し潰しながら根を生やした1本の大きな樹木が、まるで出迎えの抱擁のように枝を広げていた。建物は崩れかけており、ステンドグラスの十字架だけが空しく光る。人の気配は無い。

3

この場において、教会はその働きを成していないことは明白だった。
愛すべきではない人を愛する気持ちを、抑えようとしても溢れてしまう想い、大切な家族を傷つけたこと、そんな自分に絶望した。罪をこの教会で告白しこの世から消え去りたいと思っていた。

眩暈がして幹にそっと手をつくと、ごわごわとした樹皮は次第にベルベットのように柔らぎ始め、複雑に絡む根の奥で何かが光った。

それは書物のような形の瓶に貼られた、ゴールデンメタルプレートだった。
彫られた文字は「…Bois d’Arménie (ボワ ダルメニ)?」。

指で文字に触れたその瞬間、スクィーザーから香りが放たれた!
フランキンセンス、アイリス、ピンクペッパー…、やがてミステリアスな樹のフェロモンに包まれ、その圧倒的な香りに気を失いかけた。

4

周囲は黄金の靄(もや)が覆い尽くし、その中で光輝く1羽の鳥が舞い上がる。まるで魂を浄化するように頭上を旋回し、靄の中に愛する人の姿を見た。ゆっくりと私を抱擁する。
心に留めようと必死に目を開くけれど、まるで銀の砂が零れ落ちるように記憶はさらさらと流れ去り、夢のまた夢のようなひと時に瞳を閉じた。罪は散り、愛だけが残った。

アルメニアの森の奥深く。全てを赦す香りがそこにある。

5


叩きつけるような雨が土を溶かし、ぬかるんだ地面にはいくつもの薔薇が横たわる。泥を跳ねあげながら馬車が走る。馬の荒い息が闇に響く。

それはきまって嵐の夜。彼は突然身体が動き、自然と薔薇を求め、気づくと馬車に乗っている。たった1本の薔薇、彼女の愛した薔薇を探して。

「反対しなければ良かったのだ…。いや、赦せない。」思いは巡るばかり。
馬車を埋め尽くす薔薇の花の香りに埋もれてゆく。

私の娘は許されない恋をし、その過ちも想いもずっと隠していた。それがどんなに私に打撃を与えただろう。何日も彼女を罵倒し続け、その度に彼女は目いっぱいに涙を浮かべ赦しを乞う。それでも赦せなかった。何故だ、何故私の娘が、何が間違っていたのだ、何故道に外れた愛を選ぶのだ!

ある朝、彼女が出て行って、全てを失った。後悔、憤り、懺悔…私は何も感じないことに気付いた。何も見えない、聞こえない。嵐の夜を越えると、朝には泥だらけの靴と無数の薔薇、そしてパチュリの香りが残った。

6

ふと、窓の向こうに彼女の姿を見た。朝日の中、薔薇の花を揺らしながら、走ってくるのが見えた。帰ってきたのだ!やはり家族を捨てることなど出来ないのだ。嬉しくて窓を開け、大きく身を乗り出した。

嵐が過ぎ去った後の庭に、爽やかな薔薇の風が吹き抜けていく。
あの子の髪の香り。「パパ、ずっと一緒だよ。」

7


シュッと音を立て暗闇に炎が灯ると、老人の姿が浮かび上がる。
年輪のような皺、シミは斑点のように広がり、彼がかなり年老いていることを伝えている。しかし鋭い眼光はまるで鷲のようで、黒目に炎が煌めき、まるで若者のように情熱が燃えていた。
「これでいい。」老人は深く頷いた。
まるで自分に言い聞かせるように、震える手を抑えつける。

8

僕の姉は、森の奥にあると噂の古い教会へ向かって旅立った。二度と戻らないと手紙を残して。そのショックから父は生きる力を失った。まるで僕の存在は忘れてしまったようだった。亡くなった母に似た姉は、父の生き甲斐だったからだ。毎日酒を飲みぼんやりしていた。栄えていた父の事業は瞬く間に衰え、数か月で僕たちは全てを失った。

ある朝、何かが割れるような大きな音がして慌てて駆けつけると、父は窓枠から落ち庭に倒れていた。故意なのか事故なのか…いやどうでもいい。姉の育てていた深紅の薔薇を掴もうと、指先だけを伸ばすような姿。スッと息が途絶える。

9

「お願い死なないで!」僕は父の手を強く握り、混乱の中、昔読んだ童話の中に記されていたある呪文を口にした。

「フェニシスの炎
燻ぶる松葉とインセンスの灰
松葉は消えてなくなりお香は単なる灰になり・・・」

すると、庭の松葉が一斉に、瞬時にその身を燃やしながら舞い上がった。まるで吹雪のように灰が空から僕たちに降り注ぎ、ゆっくりと身体を覆ってゆく。

灰の動きに合わせるように、僕の魂は父の身体へ移動を始めた。父の指がピクリと跳ね、ゆっくりと瞼が開く。

それから、僕の生気は毎日少しづつ父へと移動し、父の命を保つようになった。父は若々しさと生きる力を取り戻した。父の命が続く代わりに、15歳の僕はこの先何倍もの速さで老いていくだろう。
僕が望んだことだ。やっと愛する父の役に立てる。この身の全てを捧げよう。僕は森の奥深い洞窟に身を隠した。僕の存在は無かったことにすればいい。最初からこの家に男の子は存在しなかったんだ。

洞窟にはテキサスシダーとバルサモミの香りがぼんやりと漂っていた。
父はいつか姉を探し出せるだろうか。そのために自分は少しでも永らえなければならない。炎を移す老人の黒い瞳が、黒曜石のように輝いた。


【掲載製品】
GUERLAIN 「Bois d’Arménie (ボワ ダルメニ)」75ml ¥32,000+税 / ゲランお客様窓口tel.0120-140-677

L’artisan Parfumeur 「VOLEUR DE ROSES」100ml ¥16,400+税 / ブルーベル・ジャパン株式会社 香水・化粧品事業本部 tel.03-5413-1070

AEDES DE VENUSTAS 「PHOENICTS(フェニシス)」190g ¥12,000+税 / 株式会社セモア tel.03-6753-2753

著者プロフィール

YUKIRIN
YUKIRIN美容ジャーナリスト/香りのストーリーテラー
ナチュラルコスメとフレグランスのエキスパートとして、
「香りで選ぶナチュラルスキンケア」や、「香りとメイクのコーディネート」など提案する他、
香りから着想される短篇小説を連載中。

媒体での執筆・連載の他、
化粧品のディレクション、イベントプロデュース、ブランドコンサルティングなど幅広く活動している。

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