魔法の香り手帖

若草の頃

1

深呼吸と共に目を開くと、まばゆいばかりの緑が広がっていた―。

新緑の季節、やっと休みを合わせることができた私たちは、束の間のバカンスを楽しむために植物の生命力に満ちた火山島を訪れることにした。日常の疲れを忘れリフレッシュに期待を込めて。

それなのに、私たちといえば喧嘩をしていた。私が出がけに身に着けようとしていたボタンカフスが、引出しからすっかり消えていたのがきっかけだった。妻へ尋ねると知らないと言う。しかし、自分で動かした覚えは全くない。どうしても身に着けて旅に行きたいと思い、部屋をあちらこちらと探していたら、出発予定の時刻を大幅にオーバーしてしまい、妻はすっかりへそを曲げてしまったのだ。

「絶対にあの引出しに入れておいたんだ。おまえがどこかへ移動させだんたろう。」
「あなたは何でも私のせいにして!自分でどこかへ仕舞ったんじゃないの?」

むくれた顏を窓の外に向けたままの妻に、私もだんだんと腹が立ち始め、ついに2人は口をきかなくなった。降り注ぐ太陽の光が、余計に静けさを感じさせる。火山島へ続く道を黙々とドライブし続けた。

やがて、溶岩石にあおられた爽やかな熱風が私たちの頬を染める頃、急に景色が開けた。私たちは思わず「あっ!」と口走り、顔を見合わせた。目の前には生き生きとしたマンダリンが実をつけた木々と、美しいボーダーを描く茶畑が悠然と広がり、その上を風が優しく撫ぜるように吹き抜けその香りを届けてくれた。見蕩れてしまう。何と美しいのだろう…。

私は「L’ILE AU THE」の香りを、無くしたボタンカフスの代わりに手首に留めることにした。妻には耳の上に花を飾るようにそっと挿してあげた。妻は嬉しそうに目を伏せる。
私たちは若くはない。歳をとって互いに頑固になった分、喧嘩もする。けれど、いいじゃないか。こうして永遠の一瞬を積み重ねながら、寄り添って生きていくのだ。

2


彼女は自分の小さな庭の片隅に、ひっそりと咲いている可憐な白い花を見つけた。うずくまってみると、数々の存在感ある花々に混じり、小さなスポットライトを灯したように連なっているスズランたちが顔を出した。
彼女の黄色いカーディガンと、白いスズランの花、グリーンの葉が鮮やかなコントラストを描く。私の母。

彼女が苦しい立場に立って、色々な局面に立ち向かってきたのは、この数年のことだった。協力者が居なかったわけではない。けれど、彼女が抱えねばならない負担は大きく、また気持ちを全て分かってもらえる訳ではない。何かを言えば愚痴っぽく、彼女はどんどん無口になっていった。孤独な日々との戦い。疲れは不安と重なることで、大きく暗闇へ舵をとるものだ。頑張ったって、誰も褒めてはくれない。できて当たり前だと。

私はスズランの香りになって、彼女の頬を小さなスポットライトで照らしたい。私にできることは小さいけれど、これからはたくさん、明るい出来事が起こるよ。たくさん笑って、たくさん楽しいことをしようね。
でも、今すぐは飛んでいけないから「ミュゲ・ド・ロジーヌ」の香りを風に乗せよう。洋ナシとトルコのローズ、エジプトのジャスミンも一緒。フレッシュでエレガントな風が届くときますように。スズランの花言葉「Retour de Bonheur-幸せの再来-」を願って。
明日はきっといい日になる。

3


ある日の優しい午後、僕たちは風を切って歩いた。

青空は突き抜けるように遠く、草原の草が膝のあたりをそよいでいる。
目の前に広がる針葉樹の森、立ち入れば始まりの泉が音を立てて、僕たちを歓迎してくれる。透き通るようなこぼれ落ちる豊かな水に、ミントやバジルのハーブが身をよじりはじけた。レモンやシトラスフルーツの香りを思い出すと、ふと味覚がよみがえって笑みがこぼれる。本当は何でもできるような気がした。

生きることは果てしない冒険だ。泥臭いことが山ほどある。必死に何かを掴まなければ、何も残らないかもしれない。それでも、あの空、雲、緑、水、きらめきを思い出してみよう。僕たちはいつまでだって、透明でいられるはずさ。

4

若草の頃。僕たちのYOUTH。あの日の記憶。
もうすぐ、夏の匂いがするだろう。

5

【掲載製品】
■ANNICK GOUTAL「イル オ テ オードトワレ」100ml ¥20,800+税/ ブルーベル・ジャパン株式会社 香水・化粧品事業本部 tel.03-5413-1070
パルファン・ロジーヌ パリ「ミュゲ・ド・ロジーヌ」50ml ¥13,500+税 /株式会社フォルテ tel.0422-22-7331
L’Artisan Parfumeur 「L’EAU DE L’ARTISAN」 100ml ¥18,000+税 / ラルチザン パフューム表参道本店 tel.03-6419-9373

著者プロフィール

YUKIRIN
YUKIRIN美容ジャーナリスト/香りのストーリーテラー
ナチュラルコスメとフレグランスのエキスパートとして、
「香りで選ぶナチュラルスキンケア」や、「香りとメイクのコーディネート」など提案する他、
香りから着想される短篇小説を連載中。

媒体での執筆・連載の他、
化粧品のディレクション、イベントプロデュース、ブランドコンサルティングなど幅広く活動している。

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