CheRish Brun.|チェリッシュブラン

私のごきげんな毎日

ある男と香りの物語

魔法の香り手帖

1

港町にあるアイリッシュパブのカウンターで、その男が胸元のポケットに手を入れた瞬間、私は身構えた。武器かと思えば、男の手にはポルトガル製のコルクキャップの小さなガラスボトルが握られていた。ボトルに小さなスティックが詰まっている。
DANESONの「No.22 BOURBON」は男にとって、葉巻と同じくらいこだわりの品らしい。良質な白樺の木にミントやレモンなど様々なフレーバーが染み込ませてある楊枝は、何かを考えている時に、唇に挟むのが楽しみなのだ。今夜はケンタッキーストレートバーボンウイスキーのフレーバーを選んだという。そしてカウンターにもたれ一息ついた後、語り始めた。

「君はこんな男の話を聞いたことがあるかい?」

サン・トロぺの港は漆黒の闇に包まれていた。遠くに居場所を知らせるような船の光がぼんやりとするだけ。生暖かい海風が頬を撫ぜていく。
暗いラウンジのテラスで、浅黒く焼けた肌の男が琥珀色のグラスを傾けながらゆったりとソファーに腰掛け、コイーバの葉巻を片手に暗い海を見ていた。海の音は、遠くで鳴るバンジョーの軽快なリズムを飲み込んでいくようにさざなみを繰り返している。テーブルの上には、パナマハットが所在無げに佇む。
男が白いシャツのボタンを少し開け首元を緩めると、その胸元からIL PROFVMOの「Quai des Lices」が漂い始めた。

2

シロマツ、ミモザ、ユーカリ、そしてヴァージニアブランドタバコとインドネシア産のパチュリ。力強く圧倒的な存在感を持つ誘惑の香りは、やがてテラス中を満たしてゆく。ラウンジから1人、また1人と、女たちが躰を揺らしながら近づいてくる。女たちの肌に香りが移ると、蕾が開くように鮮やかに色づいてゆく。誰もが振り返らずにいられないほど。
男はまた海に目をやる。彼が望むのは世界だ。熱く、強く、強引に、世界を抱き寄せたい。彼を駆り立てるのは美しい情熱。自分の魅力は誰よりも自分が分かっている。
全てを知るようなカリスマティックな男の香りは、とてつもなく優雅だ。

手についたパウダースノーのような砂糖を払うと、その男は白いキャスケット帽のつばを少し直した。
ヴァレンタインを前に彼のパティスリーは準備に追われている。森の中でひっそりと始めたこの店も、気づけば様々な貴婦人が日をあけず訪れるようになり、その度にうんと買い物をしてくれる。甘いパン・オ・ショコラ、フィグと蜂蜜を練り込んだバゲット、森で拾った栗と胡桃のマロンブレッド…。「あなた、可愛い顏をしているわね」と、彼女たちは次々に”お土産“もくれる。だから僕は毎日、彼女たちの欲望を満たすような、甘いパンを作り出す。

3

白く繊細な指で、淡々と生地をこねてゆく。その身体からは香りが漂う。木々の聖なる香りに、お菓子のような甘さ、刺激的なスパイスたち。普段は気取った貴婦人たちが、日ごと僕の味に夢中になっていく様を見るのは楽しい。味覚を支配するのは、とても動物的でセンシュアルだから。
妄想を頭に仕舞い込み、白い制服の襟を正す。そして、あどけなく見えるようにわざと小麦を頬につけた後、Openの札を立てた。
舌でぺろりと下唇をなめて客を待つ。まるでクールな「いじわるオオカミ」のように。

ライブハウスの重い扉を押し開けると、昨晩までの騒ぎが嘘のような昼間の静けさと、モップをかけた歴史のある床や、鉄の手すりが迎えてくれた。
その男はレザージャケットの襟をくいと立て直して、ギターケースを片手にフロアへ降りた。厚着をするのは格好の悪いヤツのすることだ。ぴたりとしたTシャツにレザージャケットと、スキニ―ブラックデニム、香りは「LEATHER OUD」。レザージャケットの独特な匂いが染みついた肌に、レザーとウードの静かに情熱を秘めた香りが馴染むから好きだ。

4

音鳴らしとリハーサルを終えた後は、楽屋で髪を立てる、アクションに耐えられるよう身体を伸ばす。ステージをイメージする。光をイメージする。男が10代の頃からいつも、ずっとやってきたことだ。それも今日で最後になる。
悔しく無いと言ったら嘘になる。「もっとやれるんじゃないか?」それを口にしたら崩れそうだから、口にしないだけだ。これまでの時間に愛と感謝を込めて、有終の美を飾ろうじゃないか。この香りがそっと、今夜の自分を支えてくれるだろう。
始まりを告げる音楽が流れ始める。男はギターを肩にかけ大きく息を吐き、闇から光へ、ステージへ勢いよく飛び出した。

男たちの纏った香りには、静か光るドラマがある。
それはきっと、女には分かるようで分からない誘惑の香り。

【掲載製品】
■DANESON 「Bourbon No.22」 ¥1,000+税 / CANVAS DISTRIBUTION tel.03-5639-9669
IL PROFVMO「QUAI DES LICES(ケェデリィス)」 50ml ¥13,000+税 / (株)セモア tel.03-6753-2753
L’Artisan Parfumeur 「MECHANT LOUP」(メシャン ルー オードトワレ) 100ml ¥18,000+税 / ラルチザン パフューム表参道本店 tel.03-6419-9373
FLORIS 「LEATHER OUD Eau De Parfum」100ml ¥34,000+税 / FLORIS(ハウス オブ ローゼ) tel.0120-16-0806

美容ジャーナリスト香水ジャーナリストYUKIRIN
ナチュラルコスメとフレグランスのエキスパートとして、
「香りで選ぶナチュラルスキンケア」や、「香りとメイクのコーディネート」など提案する他、香りから着想される短篇小説を連載中。

媒体での執筆・連載の他、化粧品のディレクション、イベントプロデュース、ブランドコンサルティングなど幅広く活動している。
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