CheRish Brun.|チェリッシュブラン

私のごきげんな毎日

モノトーンの足音

魔法の香り手帖

1

深夜にコツコツ…と、誰かの足音が近づく音で目が覚めた。
寝室の扉のすき間から漏れる仄かな光をたよりに、そっと部屋を抜け出すと、そこには光と影、白と黒。色の無い世界が広がっていた。

黒々とした木のふもとでは燃えさかる薪の炎が白く揺らめき、空の星たちははしゃいで着飾り、シャンデリアのようにピュアな光を放つ。
対岸に一人の少女が見える。霧がベールのようにふわふわと少女の周りを揺れながら浮遊している。次第にベールは香りを放ち始め、霧に乗って漂い私まで包んだ。インセンス、ムスク、カストリウム…セルジュ・ルタンスの「ロルフェリン」だ。

2

ベールがどんどん膨らみ少女の姿を覆いつくす頃、突然、大きな風が吹いた。薪の炎は一瞬で消え、巻き上がる風に乗って、煌めくスターダストのように灰が高く大きく舞い上がる。少女の躰は、次第に煌めく灰に包まれ霞んでゆく。あれは、幼い頃の私。

完全なる純粋は子供の世界。チェスを1歩進めるごとに、大人になるごとに、私の世界は煌めく灰で満ちていくだろう。でもその記憶はいつまでも、完全な繭に包まれ心の中で輝き続ける。

赤く透明な果実は、危うい色気を放っていた。唇に、赤い欠片たちが次々と吸い込まれていく。ざくろ、ラズベリー、プラム…世界中を飛び回る貿易商の父から届く箱からは、時折ピンクペッパーのスパイシーな香りがする。中には山ほどの赤い果実と、いつも短い手紙が入っている。「誕生日おめでとう。今年のクリスマスには帰ることができそうだよ」と。その手紙を信じて喜べたのは10歳まで。20歳になった今は既に諦めている。

彼女は母が一番好きだった赤いシルクのイブニングドレスを身に着け、ドレッサーの前でジョー マローン ロンドンの「ポメグラネートノワール」を纏った。

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美しく聡明で優しかった亡き母と一つになれるような気がした。私はもう儚い乙女ではない。私を包む灰は、赤いドレスをひるがえす風に乗って消え去るだろう。この香りと共に、自分の足でどこへでも行ける。

最愛の女性を失って家へ戻る気力を失った父を、今なら許せるような気がした。どこからともなくカサブランカが柔らかく香り、窓の外を覗くと夕暮れの空の向こうに女性が佇む姿が見えた。

風に乗って舞い上がった灰が鼻腔をくすぐった。
絶頂で火に飛び込んだ不死鳥が、今、灰の中から輝きを強めながら姿を現すところだった。無数の曼荼羅が描かれた羽をゆっくりと広げると、永遠の美へ捧げる叙情詩が黄金の文字となり、羽の動きにあわせて空中へ散布される。

次第に曇りが薄れると、黒い木にもたれた一人の女性が姿を現した。黒い木の幹には冷気で結晶となった灰がこびりつき、彼女の細い指からは樹脂と樹液の匂いが煙たいほど漂い、黒いサージの布からスパイスの香りがこぼれ落ちる。

彼女は姿勢を崩すことなく、微笑みを湛えた優美な姿で世界を見つめ、まるでその場の空気が自然と香っているかのように、香りを放ち続けている。その香りの名は「セルジュ ノワール」という。完璧なまでに美しい情景は、時が止まっているように感じた。

4

しばらく眺めた後、私は彼女に背を向け歩きだした。ふと、背後からコツコツと靴音が一定の距離を取りながら響いているのに気づく。白と黒の影が小刻みに揺れながら近づいてくる。あの人が追ってきているのだろうか。振り返る勇気はない。

香りは警告のように強まってゆく。
香りに飲み込まれる―。
夢から醒めた私は寒さに身を縮ませ、近づくモノトーンの足音の正体に気づいた。
そうだ、冬の足音だ。

5

【掲載製品】
■セルジュ・ルタンス「ロルフェリン/灰の乙女」、「セルジュ ノワール/黒いサージの布」 各50ml 各¥13,000+税 / ザ・ギンザお客さま窓口tel. 0120-500-824
■ジョー マローン ロンドン 「ポメグラネート ノアール コロン」 100ml ¥15,000+税/ ジョー マローン ロンドン お客様相談室 tel. 03-5251-3541

美容ジャーナリスト香水ジャーナリストYUKIRIN
ナチュラルコスメとフレグランスのエキスパートとして、
「香りで選ぶナチュラルスキンケア」や、「香りとメイクのコーディネート」など提案する他、香りから着想される短篇小説を連載中。

媒体での執筆・連載の他、化粧品のディレクション、イベントプロデュース、ブランドコンサルティングなど幅広く活動している。
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