マホガニーで作られた大きな机、後頭部を覆うほどの背もたれがある大きなチェア、作家はいつもその場所で想像を張り巡らせていた。目の前には敷地内の庭、それを遮るのは大きな窓とブラインドだ。日中ならば十分に陽が入るが、小さな照明も灯す。
坂の上のこの家には、ほとんど誰も訪ねては来ない。それでいい、静かな方が平穏だ。どうせ誰かが訪ねてきても、迷惑そうに追い返すだけだ。
朝の散歩から一人戻り、書庫の前で資料を探していた時だった。ふと人の気配を感じて右のダイニングスペースを見た。といっても、この家にはダイニングと呼べるような場所は無い。そもそもメインの部屋であるリビングは、私の仕事部屋となっていた。リビングと書庫の横に併設され、テラスにも面した4人程度座れる小あがりのことを私はダイニングと呼んでいた。普段は、そこで朝食を摂る。この家で最も太陽の光が射す場所だ。
その人物は、私のダイニングスペースに座っていた。何事も無いように、ごく自然な様子で。
「だ、誰だ!どこから入った?!」
私は大声を上げた。当然だ。いくら一人で住むには広すぎる屋敷だとて、誰かの勝手な入室を許した覚えはない。
「女…?」
その人物は、長い髪をしていた。骨格も細い。しかしこの時代、その見た目だからイコール女であると定義づけることは難しい。
「それは、そちらがどう思うかによります。」
こちらをいっぺんも見ることなく、ティーカップを傾けながら言う。
「い、いつから居たんだ。どうやって入った?鍵はかかっていただろう?」
彼女(女だと思うことにした)は大きく息を吐き出すと、私に背を向け、窓の外を見やる。答える気はないようだ。私は自分自身に落ち着けと言い聞かせながら、この人物が強盗ではなさそうだということと、とはいえ危険ではないと判断できる材料はないと考えを巡らせた。うん、まずは下手に出よう。彼女に機嫌よく、この場を立ち去っていただくことが先決と理解した。
「君、悪いが今から仕事にかからなくてはならないから、大変申し訳ないが帰ってくれないか?」
「だからこそ、私が来たのではないですか。」
「だからこそ?君はどこか取引先かメディアの人間か?取材の約束を忘れていたか?」
「あなたの脳は仕事に支配されているのです。いっとき仕事のことは忘れて、私と一緒に過ごしましょう。」
「いやいや、申し訳ないが今日中に原稿を提出せねばならない。仕事を忘れることなど、あってはならないんだ。」
「全く書けてもいないのに?」
痛いところを突かれ、私は一瞬言葉に詰まる。うまい反論は見つからず、片手で空気を握るように、かざした右手を降ろした。そうなのだ、現在は午前11時過ぎ。本日の17時までに原稿を仕上げて、受け取りにくる編集者へ渡さねばならない。しかしながら、物語の大きい変化を伴う箇所で、私は煮詰まっている。これぞという人物像を描けていない。これぞという人物、すなわち主役と互角に人気が出るような、華のあるキャラクターで、かつダークさも持ち合わせていて欲しい。男でも女でも構わないが、、、いや女の方がこの作品にはハマるか。しかし、アイデアが今一つ形にならない。
「君、この家は禁煙だぞ!」
気付けば彼女が葉巻を咥えていた。いつの間に!
「紅茶も君が淹れたのか?私の家で勝手なことをするな!」
「紅茶じゃありません。」
彼女はティーカップを傾けながら言う。
「ラム酒入りのコーヒーです。」
私は頭から火が出そうだった。一体、この女は何なんだ。どこからともなく勝手に私の家に入り、ラム酒入りコーヒーを飲みながら葉巻を吸っているだと?そうだ、警察に連絡をするか。いや、これも本人に見つからないように通報せねばならない。頭のおかしい奴に違いない。携帯はどこだ?しまった、寝室に置いたままだ。今、彼女から目を離すのは危険だろう。何をしでかすか分からない。ここは正面突破。面と向かって話してみるしかない。私は彼女の目の前に座って頬杖をついた。
「で?どうして欲しいんだ?」
「やっと遊んでいただけるんですね。」
ようやく彼女は私の目を見た。透き通るようなブルーグレーの瞳に、桜貝のような唇。意外とゴツゴツとした骨格だ。やはり男か女か判断がつきにくいが、喉を見て女だと理解した。さて、どこかで会ったことがあったか…いや、見覚えは無い。彼女はにっこりとほほ笑むと、生い立ちから語り始めた。この先の話に、どんな展開があるのか、自分と彼女に何の関わりがあるのか、どこまで聞けば終わりが見えるのか、そして帰ってくれるのか、皆目見当もつかない。彼女はとにかく一方的に語った。話を遮ろうとすると、彼女は烈火のごとく怒り、私はなだめて聞き続けざるを得なかった。数時間続き、途中何度も眠くなってしまったが、その度に彼女に揺り動かされ、眠ることは許されなかった。しっかり聞いていてくださいと、彼女は何度も言った。
気付けば、庭の光が弱まっている。いけない、今は冬だから、きっと15時半をまわって、16時くらいなのかもしれない。しかし、彼女の身の上話はまだ中学生の頃を終えたばかりだ。あと何時間かかるのか。
「君、本当に悪いが、その話は今夜か明日改めて聞かせてくれないか。17時までに原稿を仕上げなくてはいけない。どんなに仕事早いと言っても、1時間は絶対にかかる。」
「分かりました。」
意外とすんなりと受け入れてもらえ、私は少し拍子抜けしたが、これ幸いと急いで仕事机に戻った。主人公の最大の敵は、妖艶な女を書くことにした。細かな設定もするすると筆が乗る。あんなに行き詰っていたのがウソのようだった。抗えない魅力にあふれ、自由で野性的で、闇も同時に抱えている素晴らしい好敵手のキャラクターだ。
「私を選んでくださって、ありがとう。」
「すまない、もう少しで終わるから待っていてくれ。」
自分が声を出して気づいた。今の彼女の言葉、「音」で聞こえたか?
ガタン!
私は思わず仕事机の椅子から立ち上がった。そうだ、今の彼女の言葉、原稿の中から聞こえてきている。この仕事部屋は無音だ。私は慌てて、隣のダイニングスペースへ走り寄った。葉巻からゆっくりと煙が立ち上り、飲みかけのラム酒入りコーヒーがありながら誰も居ない。今しがたまで、そこに彼女が居た気配だけが残っていた。スモーキーな煙と、バニラの香りが入り混じる。そうか、彼女は…
仕事机の前に戻ると、原稿からも同じ香りがした。私は思わず呟いた。
「こちらこそ、ありがとう。」
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