CheRish Brun.|チェリッシュブラン

私のごきげんな毎日

イン・ア・ライブ

魔法の香り手帖
19-69 LA HABANA

―チェック、ワン、ツー、ターターター、ツェーツェー…

コンッと舌を丸めて音を出すと、マイクをスタンドへ戻す。ベース、ギター、ドラム&パーカッション、トランペット、ピアノと音出しのチェックが済むと、僕は再びマイクに向かい、前方の暗がりにあるPA卓へ「3曲目お願いします」と声をかけた。

最後に一旦メンバー全員で袖へはけ、SE(入場曲)を流してもらう。ステージ入場シーンから1曲目の頭の数フレーズまでやってから、30分のリハが終わった。

僕はステージに片手をついて、そのままヒョイと飛び降りる。歴史のある床だ。30年以上も、沢山の人が集い、踊り、歌い、叫び、靴底を擦り付けてきた床だ。まるで葉巻のような香りが、歴史のように沁みついている。このライブハウスは、遠い島への憧憬。古くはエリートたちの社交場、ハバネラの軽快で特徴的なリズムにラテンジャズ、サルサ。キューバ音楽に影響を受けたオーナーが、この場所に作った。それ以来、日本でコアな音楽シーンを支えてきたと言える。

フロアの一番奥にいる、オーナーが軽く手を挙げる。僕も応じるように手を挙げて、近寄って行った。

「悪いね、最後の最後まで出てもらって。」

「いえ、僕らにとっても大事な箱でしたから…むしろ最後を飾ることができて光栄だと思ってます。」

「ありがとう。でも、君らの方が心配だよ。お前だけデビューなんだろ?」

「はい。先週メンバーに伝えました。はっきり言って今日のライブも、”できたら出たくないがダメだよな?”と聞かれました。」

「そりゃそうだ。」

オーナーは、大きくため息をつく。

「レコ社もなんでそんな酷なことをするかね。10年以上やってきたバンドから、ボーカルだけ引き抜いてデビューさせるとは…さ。」

「ジャンルがコアだから大人数のバンドを扱うのは、今の厳しい音楽業界では難しいと言われました。僕もバンドでデビューしたいと掛け合ったし、担当の方もかなり粘ってくれたんです。でも結局、契約の稟議が通らなかったと…。うちのバンドは生音にこだわっているし、打ち込みでは絶対にやりたくない。固定メンバーを減らしてレコーディングやライブの時だけ現メンバーを起用するとは言われましたが、そんなんじゃスタジオミュージシャンと一緒だ。誰も承諾しませんでした。」

「お前は、一人でデビューすることに”後ろめたさ”はないのか? あ、いや責めてるんじゃないんだ。俺だって元々ミュージシャンだ。一人でもデビューできるならその切符は絶対無くしちゃいけない。99%の確率で二度と手に入らない切符だよ。」

ステージでは、次のバンドがリハを始めていた。騒がしくなり、僕たちは会話を諦め、ジェスチャーでまた後でと挨拶を交わし別れた。いつもならリハの後は楽屋へ向かうが、今日はそんな気になれなかった。メンバーたちは、怒っているというよりは、悲しんでいる方が強い様子だった。僕が24歳の時から、10年一緒にやってきた仲間だ。僕だけがまだ30代だが、彼らはもう50代半ばだ。例えようのない重い空気が僕たちを包んでいる。本番前、一緒に時間を過ごすことはつらい、むしろ嫌だった。

僕はしばらく港近くのカフェバーで音楽を聴きながら時間を潰した。デビューできる喜びを、誰にも素直に言えない。誰だって僕を責めて当然だ。メンバーがかわいそうだ。いや、それは失礼だ。でも、僕は今でも感情が定まらない。ターンテーブルで回るレコードのように、ぐるぐると心が回転するだけだった。

19-69 LA HABANA

そろそろ準備をしないとまずいという時間ギリギリになり楽屋に入ると、一瞬空気が止まった。僕は誰とも目を合わせないように丸椅子を引き寄せ、鏡の前に座った。19-69の香水を胸元に1プッシュ。急いで髪をセットしなくてはとブラシを手にした瞬間、その腕をぐいっとつかまれた。

「ちょっといいか。」

ギターの徹さんだ。振り返ると、メンバーが全員立って僕を見下ろしていた。なんだよ、本番前にボコボコにする気か?いいさ、好きなだけ殴れよ。僕はレコード会社の言いなりになって、みんなを切り捨てて、一人でデビューすることを選んだ。最低な奴だよ。全員でデビューできないなら僕もしないと言うことだって出来たんだから。

グッと強く下を向いている僕を、彼らは抱えるようにして立たせた。

「なぁ、俺たちにとって、お前はライ・クーダーなんだよ。ライ・クーダ―がキューバへ旅行しなかったら、キューバ国外で無名の老いぼれミュージシャンたちがあんなに世界的バンドマンになれたか?ラテン音楽が世界中で400万枚のヒットになったか?40代でこれからバンド続けるのはもう厳しいと思っていた俺たちが、この10年やってこられたのはお前というライ・クーダ―と出会えたからだよ。一人でデビューすること、何にも気にすんな。お前の実力とスター性が認められたんだ。俺たちはすげぇ嬉しいよ。だからもっともっと有名になれ。もっとこの音楽をラテンを有名にしてくれ。そして俺たちを迎えにきてくれよ。レコード会社の奴らが、文句ひとつ言えねぇくらいビッグになってさ。このライブハウスは今日で閉店だけどよ、俺たちは決めた。死ぬまで音楽を辞めねぇ。」

僕は何も言えなかった。ただただ涙と鼻水がぐじゃぐじゃに出て、身体の内側が燃えるように熱かった。恥ずかしかった。僕は僕の思い上がりが、メンバーを気遣っているふりの自分が、とても恥ずかしかった。

「おら、本番行くぞ。」

僕の頭にハットをグイッと乗せると、メンバーはみんな舞台袖へ向かっていった。1曲目のイントロが軽快に流れ始める。サフランやインセンス、バニラの香りが風に舞うのを感じて、僕は勢いよくステージの真ん中へ飛び出していった。

ホテルの廊下

【掲載商品】
■19-69(ナインティーン シックスティーナイン)
「LA HABANA」
100mL ¥25,300
ART EAU(アールオー)
お問い合わせ先:arteau.jp@gmail.com
https://www.arteau.jp/

美容ジャーナリスト香水ジャーナリストYUKIRIN
ナチュラルコスメとフレグランスのエキスパートとして、
「香りで選ぶナチュラルスキンケア」や、「香りとメイクのコーディネート」など提案する他、香りから着想される短篇小説を連載中。

媒体での執筆・連載の他、化粧品のディレクション、イベントプロデュース、ブランドコンサルティングなど幅広く活動している。
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