入り江の少し突き出たような陸地は、潮の満ち引きによって姿を現わしたり消えたりする。長い黒髪を上半分だけ紺色のリボンで留めた少女が、その陸地に立っていた。真っすぐに前を見た厳しい表情で、透き通るような頬をより一層青白くさせている。
4月に海から吹く風はまだ冷たく、凜と背筋が伸びるような美しさだった。弾けるようなカルダモンと、フレッシュなマグノリアが漂う。少女は突如、手のひらに包んでいたのであろう何かを、3~4メートル先の海へ放り投げた。キラキラと飛んでゆき、瞬時に海が飲み込む。それは、私が彼女を見た最後だった。
3年前の今日、ママが消えた。寝室から書き置きが見つかって、地元の若い青年と町を出ることにしたことを詫びていた。そこにはパパと私にどれだけの愛と感謝があるかも書かれていたけれど、ただ自分を正当化したいだけの言葉に見えて、私は読んだ瞬間胃の中のものをもどした。嘘みたいな悪夢って本当に起こるんだ。ママが愛用していたトランクと、大事にしていた高価な服やネックレスとか指輪が一通り無くなってた。「あなたが大きくなったら譲ってあげるわね。」と言ってくれていた、アメジストのブローチも。そんな約束だって、きっともう覚えてなかったんだろうね。
ママが居なくなっても、生活自体はそんなに変わらなかった。パパは経営者でお金はあったし、家事は基本的に今まで通りお手伝いのバルバラがやってくれた。バルバラは夕方には上がってしまうから、夕食だけはパパの秘書で以前から家にもよく来ていたアリソンが作ってくれた。ママの存在って何だったんだろうとすら思った。1年半を過ぎた頃、パパからアリソンと再婚しようと思うと言われたけど、私は動揺しなかった。そんな気がしていたし、アリソンは私に優しくしてくれていたし、私は私の生活が壊れなければ別に良いと思ったんだ。
アリソンがうちに引っ越してきて、2か月くらい経った11月末、パパは再婚のお披露目として家でパーティーを開いた。うちは大きな広間も、客室もたくさんあったし、海辺の邸宅として町では有名だったから、結構人が集まった。再婚、しかも初婚はパパにとってバツの悪い結末だったから(奥さんに逃げられたんだし)、式は行わずパーティーで友人と仕事関連の人を呼んで行う形をとっていた。私はいつも通り黒いワンピースを選んだ。「もっと“年相応”の可愛い色を選びなさい。」とパパは苦い顔をしたけれど、それ以上は何も言わなかった。私に反抗されるのも面倒なんだろうな。
私はバルバラが受付をしたゲストのコートを預かってクロークにかける役割を任された。人手が足りないからって、主役の娘にさせるかね…。面倒だなぁ、パーティーが始まったら自分の部屋にこっそり戻っちゃおうなどと考えていたその時、私はあれを見つけた。
ハンガーにかけようとした贅沢なケープコートの襟首に、ママのアメジストがついていた。そう、私にくれると言っていたあのブローチ。見間違えるはずがない。私は息が止まりそうだった。ママが来ているの?!
慌てた私は受付名簿をひったくった。私の剣幕に、バルバラは怯えながらも不思議そうな顔をした。
「何なんです?先ほどの方はお父様のお仕事関係の方だそうですよ。」
「ママじゃないよね?女だった?!男?」
「お嬢様、奥様のはずがないでしょう。このお屋敷を恥知らずな理由で出ていって、ほいほいと顔なんて出せるもんですか。それに、女やら男やらそういった言葉遣いは感心できませんよ。女性、男性とお話ください。」
「わかったってば。だからどっちなの?!」
「えーと、男性でしたよ。」
どういうことなんだろう…、まさかママと逃げた若い男が来ているとか?いや、パパの仕事相手のはずがないか。顔を確かめたくても、その人はもう会場の中で私は調べようがなかった。
「お嬢様、列が詰まっているんです。次のコートをかけていただけますか?」
せっつかれて、私は仕方なく次のコートを手に取った。しかし、頭の中はアメジストのことでいっぱいだった。私は背中で隠しながら、ケープコートについていたアメジストのブローチを外して盗んだ。こんなところでは、ゆっくり確かめられない。もし勘違いだったとしても、パーティーの終わりまでに返せばわからないはず。そう思いながら、次々にコートをかけていった。
パパとアリソンが幸せそうに挨拶をして、大人たちがグラスを鳴らしたのを見計らい、私は4Fの自分の部屋まで一気に駆けあがった。私が居なくたって誰も気づかないだろうし、一刻も早くブローチをしっかり見たかった。
部屋に入り後ろ手に鍵を閉めると、私は深く息を吐き、部屋そのものの灯りはつけずに、ベッドサイドの小さなランプだけ灯し、光に近寄った。ブローチは葡萄の形をしていた。少し左に曲がったデザインで、アメジストが葡萄の実の艶やかな表情を醸し出している。私はもう一度息を吐くと、思い切って裏返した。斜めにかざしてランプにぐっと近づける。やっぱりあった。一番下、葡萄の実の裏側にあたる部分の金属に、私が子供の頃つけた薄い傷だ。母のドレッサーから持ち出して遊んでいて傷つけてしまった。持ち出したことをこっぴどく怒られ取り上げられたため、さらに怒られると思って傷をつけたとは言い出せなかったのだ。
やっぱり、これはママのブローチなんだ。これがここにあるということは、選択肢はおおよそ3つに思えた。
① ママが来ている
② 男の方が来ている
③ ママがお金に困ってこのブローチを売って、それを買った人が来ている
そのどれかだよね、多分。ママだったらお手伝いさんがすぐ気づく。男の方はパパが気づいて摘まみ出すだろう。3番目の選択肢が妥当なのかな…。
私は少し悲しい気持ちになりながら、ベッドサイドランプを消してブローチを返しに行こうと思ったその時、窓の外から何か話す声が聴こえてきた。あ、しまった!窓ちゃんと閉めてなかった。海風で部屋が傷むと、またバルバラに怒られちゃう…と思いながら、私は窓に近寄った。パーティー会場の喧騒だと思ったら、話し声は隣の部屋の小さいバルコニーから発せられているようだった。隣の部屋はウナギの寝床のように細い間取りで、衣装持ちだった母のクローゼットがわりに使われていた。椅子2脚がやっとくらいの小さなバルコニーがついていて、部屋の入り口からは全く見えないため、パパに秘密の場所としてよくママとお喋りをした場所だ。聴こえてくる声は低い男の声だった。
「…あんたにとっては終わったことだろうけど、私にとってはまだまだ。ゆっくりと助けていただく予定だからね。それくらいのことはして差し上げたでしょう。」
誰?そして何の話?何か言い返す女の声が波音で途切れとぎれに散る。バルコニーは狭いから、男の方がバルコニーに立って、女の方はクローゼットルームの内側に立っているのかもしれない。また男が話し出した。
「心配いらないさ。行方不明者が毎年何人いると思っているんだ。しかも、状況を完璧に整えた失踪だからね。でも、足りないね。確かに売りさばいた金はいくばくかにはなったが、所詮数百万だ。あんたが相続したら何憶だろ。そのための準備だって4~5ヶ月あれば完璧にできるさ。春の海辺で父と子が遊んでいて、足を岩に挟めて動けなくなり満潮になって水死。母親と同じ場所だとは知らずな。キレイなストーリーさ。」
「嫌な言い方しないで。ちゃんと相続したら分け前は払う。それにしても、岩に足を固定させてしまう金具の仕掛け、あれは凄いわね。」
女がバルコニーへ出たのか、急に鮮明に声が聴こえた。そして窓枠に反射した顔を私は見た。
アリソンだった。
馬鹿な男だ。いや、馬鹿な親子。私はこの結末へたどり着くまで、たっぷりと時間をかけてきたのだから、絶対に逃がさない。
私の家は小さな下請け工場をしていた。従業員は私の両親と、熟練の作業員が2名。地味だけど楽しい暮らしだった。私の子供の頃の遊び場は父の工場だった。次第に増えてゆく両親の口喧嘩。それでも、私の顔を見ると二人は口をつぐみ、笑顔になった。ある日、学校から帰った私に、工場のおじちゃんが駆け寄ってきて、凄い力で抱きしめた。工場に入っちゃダメだと。父の死は工場を救った。
原因は、取引を急に打ち切った大企業のせいで資金繰りが出来なくなったからだと知ったのは、私が10代になってからだ。どんなに頭を下げても、取引再開は取り合ってくれなかったと、母は酔って愚痴った。
私は必死に勉強し、その大企業に就職し機会を待った。そしてついに、社長秘書に任命される時が来た。私は自分が社長の愛人であるかのように、妻へアピールを装い始めた。簡単なことだ、妻からの電話を幾度か社長につながなかったり、自分の持ち物を社長のスーツのポケットに忍ばせたり、家に出入りするようになってからは、何かあるようなねっとりとした視線を妻へ送った。それだけでも女は、本当は一切煙の出ていない偽の火にまで怯えてしまうものだ。
ある時、私は妻に涙ながらに謝罪をした。
「奥様、今まで本当に申し訳ありませんでした。私はもう別れようと思っています。これ以上、申し訳ないことはできないと。しかし、社長が離れようとしてくださいません。そのためにも、奥様が出ていかれるお芝居を打ってはいかがでしょうか。奥様の大切さを改めて社長に認識いただき、私を切ってくださるように仕向けたいと思っているのです。せめてものお詫びとして、私もお芝居をお手伝いします。」
彼女はお嬢様育ちで、悪意に鈍かった。社長は彼女の実家に婿入りして権力を持っただけということも知った。つまり彼女は、私の家のような無数の悲しみと怒りの上に成した財で、のうのうと生きてきたのだと思うと心底憎く感じ、彼女に報復することは正しいことのように思えた。私は弱者の代表のような気がした。
彼女は私のアドバイス通りに、夫と娘に宛てた手紙を書いた。荷造りは私がした。彼女はそんなものの中身はどうでも良さそうだったから、高価そうなものばかりを詰めておいた。
陽が沈んだと同じ頃、入江に留めておいたボートに彼女を誘導した。そこから乗って、入江を半周するとビーチハウスがあるからそこに1泊して、翌朝帰ればいいと話すと、彼女は「ありがとう。」と言った。私は吹き出しそうになるのを必死にこらえながら、ボートに乗り込むために片足をあげた彼女を突き飛ばした。
少しずつ満ち始めた潮の中で彼女は派手に転び、起き上がろうと必死にもがいている右足を私は掴むと、岩につけておいた金具で挟んだ。ねずみ取りのようにバネが反応し、外そうとすればするほど金属が食い込むように作られていた。溺れまいと頭を上下する彼女を置いて、私はボートに乗って去った。
半周したビーチハウスで、男に荷造りした彼女の荷物を渡し、高価な服やジュエリーは自由に売って金にするよう伝えた。やがて潮が満ちた。
潮が引いて現れた陸地に、彼女は立っていた。冬の厳しさを越えた春の澄んだ空気と、まだ冷たい海水が入り混じっていた。彼女にとって戦いの4ヶ月半だっただろう。いくら利発で聡明な彼女でも、目的はわかるのに道が分からない、そんな日々だったのではないか。心が痛い。
パーティーの後、彼女は必死に普通に振舞ってきた。知らないフリをすることが、”その時期”を早めない最善の策だと思ったからだ。3ヶ月半耐えた後、3月8日の夜、葡萄型のアメジストブローチを夫婦の寝室にこっそり置いた。彼女なりの宣戦布告だ。それを見て震え上がる人間を想定した上での行動だった。
それから彼女は徹底して敵を追い詰めていった。幻聴、幻影、味のしない料理、そしてモスキート音を使い睡眠時間を狂わせていった。勿論一人で彼女ができる訳はない。彼女は3ヶ月半、耐えるだけでなく味方を説得した。長年母の世話をしてきたバルバラだ。既に両親が他界していた母にとって、バルバラは家族のようなものだった。
4月のある夕暮れ時、彼女は入り江に呼び出された。「ボートに乗ってビーチハウスで夕食をとろう」と書かれた、父からのメッセージカードが部屋にあったからだ。あと1時間もすれば潮が満ちて屋敷のギリギリまで地面は消えてしまうだろう。燃えるような夕陽は、命燃え尽きんばかりに輝いていた。
入り江から見上げれば、そこにはあの小さなバルコニーがあった。アリソンはバルコニーから彼女の姿をとらえると「勝った」と小さく呟いた。頬は痩せこけ、目の下にはどす黒い痣のようなクマを宿したアリソンが、入り江に向かおうとクローゼットルームを振り返った瞬間、私は彼女の首を掴んだ。驚いて目を見開いた彼女を連れて、私はバルコニーから思い切り飛んだ。
大丈夫だ、君を脅かす存在はこれで居なくなる。ママが消えたであろう岩場に、今投げ込んだのは葡萄のブローチだろう?でも、君にアリソンを消させることだけは絶対にさせられない。アリソンの家を窮地に追いやったのは、先代の社長、つまりママのお父様だ。あの葡萄のブローチを寝室で見て不審に思い、バルバラに尋ねなかったら、彼女も自らは話してはくれなかっただろう。それにしても、私は大馬鹿者だ。アリソンの謀計を見抜けなかった。
アノリ、パパは海風になるよ。海を渡って、ママを連れてまたこの入り江に還ってくる。だから寂しがらなくていい。ずっと一緒にいるよ。
波しぶきを浴びた凛々しい北風は、蒼い氷と共に消えていった。
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