魔法の香り手帖

享楽の吐息

夕暮れ時、ひとつひとつ家の灯りがともるように、男たちの上質なスーツのボタンホールに、赤いカーネーションがひとつ、またひとつと挿し込まれる。

それは決して目には見えない。赤いカーネーションを身に着けた男たちは、家路へ向かう踵を返し、石畳の街へ消えてゆく。その顔は皆、自信に満ち。尊大にすら見えた。どうして抗えないのだろうか。それはそうだ、あなたは無意識のうちにずっと昔から居るのだから。日々、降り積もる罪。透明な水に少しずつ混じり始める黒。一度染まれば、元に戻ることはない。


「またパーティーでの不審死か…。」

デイヴィッドは頭を悩ませていた。このところ、様々なパーティーで参加者の中から不審死が続いていた。被害者は全て男だ。目撃者は多数居り、突如胸を掻きむしり始めたかと思ったら、倒れて亡くなってしまうという話だった。当初は被害者に心臓の持病があったことから、突然死とみられていた。しかし、この1週間で死者は3人にのぼる。吹き出す血が赤い花弁になって散り、フルーティーなほどの芳しいワインの香りが充満し始め、人々が驚いている間に息が無くなっていたという嘘のような証言が次々に飛び出し、街は「何かの呪いではないか」と噂した。共通しているのは、皆が死の間際、恍惚の表情をしていることだった。苦しくて胸を掻きむしった後に、絶頂に達した顔などできるはずがない。不可解だ。

あまりにも度々同様の事件が続き、市はついに

「一過性のウイルスの疑いがあり、当面の間、夜間の外出は控えるように。」

と通知した。しかし、守るものはほとんどいなかった。毎晩、誰が開いているのか分からないパーティーが開かれた。家にまっすぐ帰ると家族と約束した者でさえ、まるで熱病にうかされたようにそのパーティーへ集まってきてしまうのだ。

人々が自主的に参加している以上、警備を強化する以外、警察が出来ることは無い。デイヴィッドは、アーモンド形の目にグッと力を込めると、今夜のパーティー会場に入った。同僚たちは屋敷の外から不審者が入らないか確認に行った。銃はしっかりと腰につけてある。

フロアには、ジンとアブサンの香りが漂い、人間の欲望が渦巻いていた。パーティーの主宰者が誰なのか、その目的すら参加している者はとうには見失っているようにさえ見えた。


不思議だ。夕暮れには家に帰ろうと歩いていたのに、胸にズンと重いものを感じてから、まるで自分の身体が誰かに支配されているようだ。僕はそのまま来た道を戻り、導かれるように賑やかなパーティー会場へ入ってしまった。招待状?そんなもの持っていないし、誰にも止められなかった。皆、仮面をつけ、優雅に舞っていた。美しいマスカレード。その中心に居るのは “あなた” だ。

天と地、頭とつま先、あなたには上下左右が無い。善と悪が無い。男の様で、女でもある。あなたは死ぬことがなく、勝負事に負けることも無く、思考の速さで移動ができる。魂はうつろいやすく、お金のような泡となり消えうる無意味なものに興じる。人々の絶対的存在。冥界の王。

あなたは口の端をひしゃげさせ笑う。「この香りが欲しいか?」と。

私は意識のハッキリとしない中、その問いにだけは急に身体が燃えたぎり、「欲しい!今すぐ!」と叫ぶ。

するとあなたは私に深く口づけをし、ゆっくりと黒い吐息を吐き、私の中へ入り込んだ。そして今度は、息を吸い込むと同時に私の中から黄金に煌く塊を吸いあげた。私は一瞬だけ胸が苦しくなって搔きむしったが、そこで記憶は途絶えた。

魂を吸い上げた後、ボトルの中には1滴の黒い光が落ちていった。
彼の魂は、この香りに包まれて、幸せであろうか。


鋭い悲鳴が上がり、デイヴィッドは慌ててパーティー会場の中、仮面をつけた参加者たち押しのけて中央に近づいた。

フロアの中央で倒れた男を、デイヴィッドは抱え起こしたが、既にこと切れていた。辺り一面には赤い花びらが散らばっていた。顔近づけてみる、薬のニオイはしない。血も一切流れていなかった。恐らく、また心停止だろう。

一瞬、立ち去ろうと翻ったマントが見えた。デイヴィッドが慌てて追いかけようとした瞬間、仮面をつけた参加者が何十人も立ちはだかり遮った。

「なんだ、お前たちは!通しなさい!」

彼らは一斉に、ニヤリと歯を見せる。鋭利すぎる歯は人間のものとは思えない。思わずぞっとして息をのんだ。後ずさりながら、一瞬振り返って目を疑った。倒れていた男は忽然と姿を消していた。散らばった花弁だけを残して。

魂を差し出す人間がいる限り、その香りは1滴ずつ増えゆく。誰かの透明な心を、黒い雫で色づけてゆく。それは転生。汚れなき美しさから、悪を知る美しさへと。

その悪魔が提示するトリックは香り。
あなたが全てを差し出すならば、このセンシュアルな香りをあげましょう。


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著者プロフィール

YUKIRIN
YUKIRIN美容ジャーナリスト/香りのストーリーテラー
ナチュラルコスメとフレグランスのエキスパートとして、
「香りで選ぶナチュラルスキンケア」や、「香りとメイクのコーディネート」など提案する他、
香りから着想される短篇小説を連載中。

媒体での執筆・連載の他、
化粧品のディレクション、イベントプロデュース、ブランドコンサルティングなど幅広く活動している。

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