CheRish Brun.|チェリッシュブラン

私のごきげんな毎日を送るライフスタイルマガジン

彼女の帰還

魔法の香り手帖
オードパルファン ユヌ フィグ

人が美しいと思うもの、景色。例えば、花びらが風に舞う桜、生命力にあふれた樹木の緑、陽光がきらきらと輝く海、真夏の夜の高台から見る夜景、目の前に広がる碧い湖、今にも零れ落ちそうな果実がなる果樹園、メープル色の落ち葉が重なる公園、誰も足を踏み入れていない雪の大地…。

それらを目の前にしたとき、純粋に美しいと思えるか、そうでないか。純粋に思えなくても、それは純粋でなくなったのではなく、哀愁だと私は思う。人が年を重ねていくことは哀愁を帯びている。様々な経験をし、酸いも甘いもかみ分け、実りの時を過ごし、いつか朽ちてゆく。限りがあるから美しく、限りがあるからどこか哀しく、そしていとおしい。

「Mさんが亡くなられていたことについて、お聞きしたいことがありご連絡いたしました。20年ほど前、Mさんと仲良くされていましたか?」

警察からの電話で、私は古い友人の死を知った。彼女とは、20代の頃、よく遊んだ。映画の現像会社のアルバイトで知り合い、大抵2名体制で作業にあたるため、シフトが同じ日は作業も何だか楽しく感じた。休憩時間に食堂で共に昼をとり、仕事を上がった後は現像会社の敷地内にある簡易映画館で、封切り前の映画を見せてもらったりした。一緒になる時間が増えると、私たちは自然と仲良くなった。趣味や好みが合うというより、空気感が似ていたように思う。

「私、映画に携わる仕事したいなと思ってて。だからあのバイトしてるの。」

彼女は井の頭公園の近くで一人暮らしをしていた。やがて私は彼女の家にも遊びに行くようになった。大学2年目だった私より3歳年上のMは学生ではなかったし、交通費も出ない現像会社で週3日程度のバイトで食べていけると考えにくい。しかし、彼女の部屋は高層マンションの17階にある2LDKで、ワンルームに住む学生の私にとっては、とても豪華な生活に見えた。現像会社は、決して華やかな職場とは言い難い。封切り前の映画が見られる機会はあれど、それ以外は基本的に作業着で、流れてくるフィルムを切ったり、つなぎ合わせたりして缶に収め、台車で運ぶような身体を使う作業が多い。雰囲気は工場に近いくらいだ。

Mはくるりと大きな黒い瞳に、少し丸みのある鼻、意志の強そうな眉、癖のある黒髪をアフロディーテのようにふわっとなびかせ、少しミステリアスな雰囲気がある美人だった。小柄だが存在感があり、きゅっと上がった口角は常に微笑みをたたえているように見えた。昼間の海を眺めるのが好きで、休みの日は横浜までドライブしてぼーっと眺めているそうで、私も2度ほど一緒に連れていってもらった。彼女の部屋は、広い割に家具は少なく、爽やかな甘い香りがいつも漂っていた。

「無花果の香りなの。」

20歳の私には無花果そのものに接する機会も少なかったが、部屋の無花果のルームフレグランスと、潮風のようなソルティーな匂いが重なり、彼女の香りとして私の記憶に刻まれた。そんな華やかな彼女の収入と釣り合わないアンバランスな生活や、映画業界に行きたい割には少々的外れに思えるアルバイトをする謎、出身地や家族のこと…、私は何も聞かなかった。彼女が話したければ話せばいいし、私は彼女と友人として過ごす時間が楽しければ、それでいいと思っていた。

それから1年半ほど経った頃、私は現像会社のアルバイトを辞めた。単純に、卒業まであと1年というところで、卒論や就職活動に時間を割くことが増え、平日のアルバイトが難しくなったからだ。辞めることを告げると、Mは少し残念そうだった。

「でも、普通に会えばいいもんね。ここで会えないのは寂しいけど。」

「そうだね、私たちは変わらないよ。」

それから3か月後、Mは音信不通で消息を絶った。

オードパルファン ユヌ フィグ

私は自分の忙しさにかまけ、彼女への連絡頻度が減っていたことは確かだ。それまでは連絡をとりあわなくても、バイト先で少なくとも週2回は会っていたし、そこでいつ遊ぶか約束すれば連絡の必要すらなかった。当時はまだスマホは無く、ガラケーもクラスの半分持っているかどうかくらいの時代。彼女は携帯を持っておらず連絡手段はパソコンのEメールか、家の電話番号とFAXだった。バイトを辞めて2か月経った頃、私は一度彼女にメールを送った。いたって普通の内容だ。「久しぶりになっちゃってごめんね。元気?次はいつ遊ぶ?」とか、そんな他愛もない内容だ。返信は来なかった。

返信がないことは、そこまで不思議ではなかった。私より彼女はパソコンが苦手だったし、メール自体を見ていない可能性の方が高い。2週間くらいして、私は自宅へ電話した。コールはするが出ない。外出しているのだろうと思い、留守電を残した。コールバックはなかった。

彼女と会わなくなって3か月、連絡がつかないのはこの1か月。私は急に心配になり、1週置き、やがて3日置き、1日置きと頻度を増やして電話した。留守電がいっぱいになったのか、やがてコールするだけで留守電にも切り替わらなくなった。FAXも送ってみた。しかし連絡はなかった。

連絡が取れない日々が1か月続き、彼女のマンションに行ってみた。インターフォンを押しても誰も出ない。窓側の敷地に回り込んでみたが、高層階なのでカーテンが開いてるかどうかも確認できない。なんだか、これじゃ私がつきまとってるみたいだな…心配なだけなんだけどな…。私が嫌になって連絡を取りたくないだけなのかもしれないのに、警察に相談するなんて大ごとすぎる。とりあえずマンションの管理室を訪ね、部屋番号とMのフルネームを告げて、引っ越したかどうかだけ聞いてみようと思った。

「えーと、その部屋番号だと、そもそもMさんのお名前ではないね。」

「え?引っ越したんでしょうか?以前は住んでらっしゃいましたよね?」

「いや、引っ越してはいないけど、Mさんというお名前ではないですね。」

「すみません、ちなみにこのマンションは賃貸でしょうか?それとも分譲なんでしょうか?」

「基本分譲です。しかし買われた方がどなたかに貸して賃貸住まいの方もいますよ。」

「ちなみに1705室は…。そこに住んでいたMさんと何度も会っている友人なんです。連絡がとれなくて心配なんです。」

そういって、自分の学生証を見せた。今思えば、素性もよく分からない相手に、居住者の情報を話すなど言語道断だろうが、私が学生証を見せた、必死な若い子という印象だったのか、管理人は教えてくれた。

「えっとね、1705室はHさんという方が分譲で買われて、Hさんが家主なのね。そこから誰かに貸したとしても、貸している相手のことを管理側に言わないことはないし、ほらポストの名前もHでしょう?正規に貸している相手なら、その人の苗字にするものなんだよ。だからHさんが家主。わかるかな?」

「その部屋に一緒に女の子は住んでいたか、分かりますか…?黒髪で20代半ばの子です…。」

「うーん、管理側はね、例えばHさんがご家族で住んでいるとしたら、そう認識しているくらいのことで、家族構成まで探らないんだよ。もし家族じゃなくて、例えばカップルが同棲しているとするでしょ。そしたら家の借り主や購入者は分かるけど同棲相手のことは素性わからないし、聞くことなんてできないわけ。だからあなたが探しているご友人が、Hさんの家に同棲や同居しているか、どういう関係なのかまで、Hさんがこちらに話さない限り分からないんだよね。」

正確には、Mの家じゃなかった…その事実だけで私はショックで、何だか泣きそうだった。私は誰の家に遊びに行っていたんだろ…。

「すみませんもう少しだけ…。Hさんは男性ですか?管理人さんは会ったことがありますか?ここに住んでいると思いますか…?管理人さんは黒髪の女の子を見かけたことはありますか?」

「はぁ、もう困ったね。ここだけの話にしてよ?Hさんは50代くらいの男性。ここには住んでないと思う。Hさんに会ったことはないけど、モニターの中でしょっちゅう見かける。黒髪の若い女の子は、何度も見かけたことがあるけど、1705室に住んでいたかどうかは分からない。これでいい?」

「モニター?モニターってどういう意味ですか?」

「つまり…テレビってこと。さ、もう帰って帰って。」

私は驚いた。Hさんはテレビに良く出ている人ということか。タレントさん?芸人?歌手や俳優?でもこれ以上は聞いたら怒られてしまいそう。

つまり、芸能人が1705室を購入して、そこにMが一人で住んでいたということになる。彼は50代半ばくらいのはずだ。Mと結婚しているならMが一人で住んでいたのはおかしいし、苗字も違うから親子や兄弟でもない可能性が高い。それならば、HとMがどちらも独身で付き合っているか、もしくはHに家庭があるか…。

Mは愛人だったのかもしれないと思った。住まいはHが提供していたなら、週2~3日好きなアルバイトをするだけで生活できたのも、高級車を持っていたのも理解できる。Hと折り合いが悪くなり、例えば急に別れて、家から追い出されたとしたら…?家の電話は置いていくに決まっているし、携帯を持っていない彼女と連絡がとれなくなったのも辻褄が合うではないか。私はその考えに憑りつかれた。自分が納得したかったのかもしれない。

美しい白木の並ぶエントランスを出て、私は帰った。何となく、もう彼女には会えないんだろうなと思った。

オードパルファン ユヌ フィグ

「はい、Mさんとは20年程前、アルバイト先で知り合い、1年半ほど友人づきあいをしていました。私がバイトを辞めた後、ある時から連絡がとれなくなったのを覚えています。」

電話口で警察は淡々と話を進める。

「そうですか、今回Mさんの遺骨が見つかったことで詳しいお話を聞きたいので、今週どこかで署まで来ていただくことは可能でしょうか。」

「遺骨…Mは、Mさんは、いつ亡くなったのですか?」

「詳しいお話は、お会いした時にさせてください。」

翌日私は出頭した。電話をしてきた刑事は、ドラマでみる刑事役よりは穏やかそうな人だった。先月、マンションの一室がリノベーションされる際に、風呂場の天井奥から遺骨が発見されDNA検査の結果と、行方不明の捜索願から照合が行われ、それがMと判明したということだった。捜索願は約20年前にMの家族から出されており、当時の彼女の勤務先や家族が知る交友関係などの名前が資料にまとまっていたことから、映画の現像会社へ確認が行き、同時期に勤務していて生存している人へ連絡をとっているとのことだった。その中で、私がMと親しくしていたという証言があり、私に話を聞くという流れになったそうだ。

「お忙しいところ、協力いただきすみませんね。早速ですがMさんとの当時の交友に関して色々お伺いしたいのです。1年半ほど友人づきあいをされていたんですね?」

「まず、20年以上前のことなので、記憶が曖昧な部分があるかもしれませんがご容赦いただければと。彼女とはバイト先で一緒になることが多く仲良くなり、井の頭公園近くのご自宅にも何度かお邪魔しました。」

「彼女はご家庭のことや、どうしてそこに住んでいるかや、恋人がいるかなど話していましたか?」

「いえ、特にそういう話はしていなかったと思います。高そうなマンションに住んでいたので、実家がお金持ちのお嬢さんなのかなと思っていました。あの、Mさんの遺骨が発見されたというのは、井の頭公園近くのマンションなのでしょうか。」

「そうですね、そちらで発見されました。」

「どうして今になって見つかったんでしょうか。」

「実は、見つかったお部屋の家主が亡くなり、遺族がその部屋を売りましてね。実際に資産として持っていただけで家主も誰も出入りしていなかったそうで、遺族も家主が亡くなって初めて、そんなマンションを買っていたことを知ったんですよ。中古マンションとして購入された方が、あまりに古いままの内装と酷いニオイがするのでリノベーションしようと工事を入れたら、天井奥から骨が出てきたという訳です。」

その瞬間、Mはずっとあの部屋にいたのだと分かった。警察は名前を言わないが、家主というのがHだと私は知っている。HはMが亡くなった後、天井奥に隠してその家へ出入りを止めたのだ。隠したくらいだから、事故的に無くなったか、Hが殺害した可能性だってある。

「そうなんですね。私は彼女の連絡がとれなくなったので、家の電話にかけたり、留守電を残したりしましたが、返事なかったです。マンションを訪ねてみましたが、インターフォンには誰も出ませんでした。心配でしたが、私が何か気に障ることをしたのではないかと思い、それ以上は追いかけませんでした。」

何となく、私はその部屋の家主がHであると知っていることを隠した。20年経って、あの時の管理人も私の顔など覚えていないだろう。

「Mさんは、その部屋に住んでいたと思いますか?」

「え?どういう意味ですか?」

「その部屋を定期的に訪ねていたのか、住んでいたのか、どちらだと思いますか?という意味です。」

「何となくですけど…住んでいたと思います。私が何度か遊びに行ったとき、彼女の生活用品はあちこちにあったし、逆に彼女のもの以外は無かったと思うので。」

「部屋でMさん以外と会ったことはありますか?」

「いいえ、ありません。Mさん以外は見かけたことがないです。」

「彼女と部屋で口論になったりしたことはありますか?」

「一度もないです。彼女とはウマがあったというか…、黙っていても気まずくないような友人関係でした。」

「分かりました。今日はこれで結構です。ご協力ありがとうございました。またお伺いしたいことが出た場合、ご連絡させてください。」

「あの…Mさんは現像会社を辞めていたんでしょうか。捜索願っていつ出されたかわかりますか?」

Mはバイトを辞めた訳ではなかった。シフトが入っている日に急に無断欠勤をし、それ以来、現れなかったそうだ。未払い分の給与を渡そうと経理担当が履歴書を見て実家に連絡したことで、家族ははじめて彼女がそこでバイトをしていることを知った。彼女が家族に対して伝えていた住所は実在せず、東京の土地勘が無い田舎の家族は嘘だと分からなかったらしい。彼女は元々女優を目指し、高校卒業後上京したそうだ。想像だが、女優になるためのオーディションや事務所探し、人脈作りの中で、Hと知り合ったのではなかろうか。感情がきちんとあったものなのか、お金のためだったのか分からないが囲われるようになった。そしていつしか、女優を目指すのを辞めた。それでも映画が好きで、少しでも携わりたかったのかもしれない。

警察を出てすぐ、私はスマホでHの名前を検索した。すぐにネットニュースが見つかった。先々月に心不全で突然倒れて、そのまま亡くなったと書いてある。現役を退いていたため、ニュースの扱いも大きくはなく、私は気付いていなかった。20年前、HはMを殺したか、部屋の中で事故死した彼女の存在を、世間や家族から葬るために私的財産であったあの隠しマンションに閉じ込め、いつか部屋ごと処理しようと思っていたのだろう。まさか自分が突然死し、処理し損ねるとは考えていなかったに違いない。しかしHが死んだ今、彼の犯行は状況証拠でしかなく、Mがどういった経緯で亡くなったかも謎のままだ。警察もこれ以上の捜査は行わないだろう。

家に戻り、すぐにシャワーを浴び、温かいお湯に浸かった。今日聞いた、様々な疑惑や悲しみ、奥底から湧き出す怒りを洗い流したかった。20年経って、今の私の目の前には、こんなに美しい景色が広がっているのに、もうこれからは切ないフィルターを通さずにいられない気がする。私が何度も電話した時も、マンションを訪ねて管理人に話を聞いた時も、彼女は暗く湿った浴室の天井に閉じ込められていた。私は自分が納得できるように自分で理由を考えて、なかったことのように過ごしてきた。その事実が重くのしかかる。

その時、ベランダに突風が吹き、私はあの匂いを感じた。潮風のような無花果の香り。人生の中で、たった1年半友達だっただけの彼女。沢山の謎を残して、いなくなってしまった人。彼女は人生を重ねていくことができなかった。歳をとって、色々な経験をしたからこそ見られる、哀愁を帯びた美しい景色を見られない。もう何も、見られない。温かいお湯の中で、私は泣いた。

オードパルファン ユヌ フィグ

【掲載商品】
■OBVIOUS(オブヴィアス)
「オードパルファン ユヌ フィグ」
100mL ¥17.600
ART EAU(アールオー)
TEL:090-4093-1006
https://www.arteau.jp

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