CheRish Brun.|チェリッシュブラン

ちょうどいい私、ちょうどいい暮らし。心地よく、ごきげんな毎日へ。

囚われの甘い影

魔法の香り手帖
セルジュ・ルタンス「ラドゥントゥーズアンカジェ オードパルファム」

私は彼女の冷たい視線に引き寄せられるように、その香水瓶を手に取った。まるで長い間眠っていたものを目覚めさせるように、冷たい黒色の蓋を捻る。次の瞬間、部屋の空気が変質した。甘く刺激的な香りが、胸の奥まで侵入する。それはフランジパニの眩い光に、アーモンドの微かな苦みが溶け込む。静かで凶暴な甘さが、吐息の奥を撫でていく。

「何かが変わると思う?」

暗がりの中で、彼女の声が静かに響く。
私は言葉を返せずに、ただこの香りに包まれて立ち尽くした。仄暗い秘密を内包している、まるで重油に咲いた一凛の花のような、歪んだ美しさ。鼓動がひとつ、ふたつと高鳴っていく。

「もう戻ることはできないの。」

彼女の輪郭は闇の中でぼやけ、ただ右の頬のえくぼだけが、一瞬だけ微笑みとともに浮かび上がった。まるで記憶に忍び込むマーカーのように。昨日まで、彼女を支配していたのは、私のはずだった。しかし今は、踏みつけるコンクリートの冷たさが真まで届き、肌の上に白粉が降り積もっている。身動きはとれない。

「代償は私が払おう。君はただそこに居てくれればいい。」

自分の声が操られているようで、他人のように冷たく響き、私は思わず背筋を震わせた。

「あなたが見たのは、この香りが引き寄せる過去の断片よ。私じゃない。」

その言葉の直後、私の頭に閃光のような何かが走る。見知らぬ街角、遠くに見えた白い花々、誰かが微笑んでいた。全てが眩しく、やがて黒い煙に包まれて視界が歪む。私は激しく瞬きをし、現実に引き戻された。

人は誰しも、過去と繋がり、それに抗うか飲み込まれるかを迫られる存在だ。私が見たのは過去ではなく――おそらく未来の、ほんの断片。この香りの中には、ただの香水以上のものが隠されている。過去と未来を結ぶ、ひとつの扉。甘さの奥に、記憶と選択の残滓が眠っている。

彼女は、再び微笑んだ。沈黙の中に、奇妙な賛同を含んで。ゆっくりと差し出されたその手は、指の先まで氷のように冷たく、それでいて抗い難い温もりが宿っていた。私はその手を取り、瞬間、あの香りに包まれる。

視界がねじれ、重力が狂い、やがてすべてが闇に染まった。

檻の中に閉じ込めていると思っていた彼女は、気づけば枷から解放されていた。囚われていたのは私で、彼女の檻でただ藻掻くことしかできない。深い闇の中で、唯一、確かなものは彼女の呼吸が微かに乱れる音。その音が耳元で囁くように響くと私の意識を引き裂き、彼女の存在だけが冷たく、鋭く、そして無慈悲に浮かび上がる。

「代償を味わって。」

闇の中で私の名前さえ、香りの中に溶けていく。
崩れ落ちたのは崖ではなく、私の足元にあったはずの檻だった。

セルジュ・ルタンス「ラドゥントゥーズアンカジェ オードパルファム」

【掲載商品】
■セルジュ・ルタンス
「ラドゥントゥーズアンカジェ オードパルファム」
(50mL ¥22,000 / 100mL ¥32,560)
https://www.sergelutens.jp/
※今後、販売終了している可能性がございます

美容ジャーナリスト香水ジャーナリストYUKIRIN
ナチュラルコスメとフレグランスのエキスパートとして、
「香りで選ぶナチュラルスキンケア」や、「香りとメイクのコーディネート」など提案する他、香りから着想される短篇小説を連載中。

媒体での執筆・連載の他、化粧品のディレクション、イベントプロデュース、ブランドコンサルティングなど幅広く活動している。
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