
深い闇の中で、あの子の泣き声がずっと響いている。賢治は自分を押し殺してそれを聞く。黙って聞いている。自分が大地と同化していくような感覚がする。深く、深く、沈んで、何も見えない。土の中で酸素は次第に薄れ、呼吸ができなくなっていく。
調査会社「CRUEL CYAN(クルーエルシアン、通称CC)」は、2020年に起きた曽根原悠里の事件後(参照「扇情のイニシエーション」)、港区の事務所を当日中にたたんだ。現在は、三宿交差点から一本奥に入った、アンティークショップのスタッフルームの中にある。
正しくは、事務所をカモフラージュするために、公安によってイチからショップが作られたのだ。彼らが用意した男が、店主として週に5日、12時~17時の間だけ店を開いている。メゾネット式に2階へ上がるドアには、スタッフルーム(関係者以外立ち入り禁止)と書かれたプレートが下げられる上、ドア自体がフェイクであり、取っ手はあれど回せないようになっている。CCに用のある者は、当ビルのごみ置き場のフェンスを抜けて、細い道をビル沿いに進むと地下へ続く階段がある。そこで指紋認証をして初めて、ビル内に入ることができる。2階まで階段を上がったフロアがCCだ。
申し遅れたが、私、水野ひかりは、CCの中からしか行けない3階で生活している。自宅として登録している住所は別にあるので、私がここで生活していることを知っているのは、公安の中でも限られた人数と、CC唯一のスタッフ(?)である那須龍哉だけだった。
あれから世間は一変し、外出や移動は制限された。よって、”第二のサロン”計画も、一旦は止まっているらしい。国の上層部は今、”それどころ”ではないからだろう。表向きは調査会社とは言え、CCにその実態は無い。つまり、”第二のサロン”計画が頓挫していると、正直何もやることが無い。しかし、何もやることが無くても自由ではないのがネックだ。私の銀行口座や通話記録は全て、国に監視されている。おかしな動きがあれば、それらの情報から大体は分かるだろう。ゆえに行動までは制限されていないが、アンティークショップの店主を見張り的に、私を抑止するために置いているようだ。
大人しく生活している分には、何も問題はない。CCの運営資金と私の生活費は、毎月振り込まれていた。しかし、公に私が何か発言することは許されていない。
外出を控えめにして数ヶ月、さすがに「何もしない」ことに辟易していた。246沿いの花屋で白い百合を買い、リビングに飾る。インセンスを焚き始めると、煙が部屋に広がった。朝食でも作ろうかという時に、公安の糸田から電話が入った。糸田はこの事務所を作るきっかけを与えた、いわゆる公安内での「水野ひかり担当」だ。

「ご無沙汰しております。」
「もう数ヶ月、ほとんど誰にも会ってないわよ。」
「ご連絡が空きましたが、変わりはないですか?」
「変わりがないことは、あなたが一番良く知っているでしょ。見張りから報告受けてるくせに。」
「ハハ、息苦しいですか。」
「アンタも笑うことあるのね…。」
その苗字の通り、糸のように細く吊り上がった糸田の目を思い出す。半年は会っていない。
「水野さんを守るためでもあるんですよ。曽根原は投身の直前まで、あなたとの会話をどこかに送信していた。第二のサロンを作ろうとしている相手は、どんな組織か分からない。未だ見えない以上、いつ狙われてもおかしくないです。」
「自分の身くらい守れるわよ。ところで、何の用事?架空の調査会社に調査のご依頼かしら?」
「そうです。実は…」
私は思わず、姿勢を正した。糸田の声が急に重くなったからだ。
「先月、世田谷区内の公園の砂場の中から、乳幼児の骨が見つかったんです。最近はウイルスの影響で、公園で子供を遊ばせることも難しくなっているので、砂場に近づく人間は減っていた。野良犬なのか猫なのか動物が、骨を掘り出して咥え、公園の入り口に落としていったと思われます。通行人がたまたま見つけ騒ぎになりました。」
「骨の部位は?」
「大腿骨の一部です。いくら公園に行く人が少なくなったからと言って、2~3ヶ月で骨になる訳じゃない。おそらく ”骨になってから”持って行って遺棄したと思われます。本庁で調査が始まり、公園近隣の住民へ聞き込みや、乳幼児の行方不明者確認など、通常通り調べられました。近隣の方が、公園の入り口に善意で花や幼児向けのお菓子などをお供えしてあったんです。しかし、数日経つと花は全てへし折られ、お菓子もめちゃくちゃに踏みつぶされている。そんなことが何回か続き、お供えをする方も居なくなりました。」
「いろいろ変ね。」
「矛盾に気づきましたか。」
「乳幼児なら犯人は実の親である可能性は高い。育児ノイローゼや、生活苦による咄嗟の犯行かもしれない。しかし、骨になるまで保管していたということは、犯行を見つかりたくないからか、すぐに後悔して手放せず側に置いておきたかったか。犯行を見つかりたくなければ、公園ではなく、離れた山の中などを選ぶ。公園に遺棄したのは誰かに気づかれたいからということよね。愛ゆえに手放せなければ手厚く葬るから、ますます公園なんかに遺棄しない。」
「その通りです。」
「加えて、供え物を荒らすということは、自分の子供を失った母親が逆恨みをして…と考える方が妥当。自分が殺害していれば、逆恨みはおかしいから、事故か病気で亡くなったと考える。防犯カメラは?」
「公園内には無いので、砂場へ遺棄する現場の映像はありませんでした。しかし本庁は、供え物が何度も荒らされたことを利用し、あえてまた供え物をした。それで、荒らしに来た人物を捕まえられました。」
「なるほどね。母親だったの?」
「いいえ、男性でした。塚田賢治、38歳。」
「じゃあ父親?」
「塚田には子供がおらんのです。既婚ですが。」
「供え物を荒らした理由は?」
「”邪魔だから”の一点張りです。子供は居ないし、近所づきあいが少ないとはいえ、塚田夫婦が子供と居る姿を見た人も居ない。子供の泣き声を聞いた人もいない。それ以上調べようもなく、供え物荒らしただけでは、厳重注意で解放されました。結果、骨を遺棄した人間もわからず、迷宮入りです。」
「で、私に何をしろと?」
「塚田を監視して欲しいのです。行動を報告していただきたい。」
「CCに居なくてもいいのね。気晴らしになりそう。」
「いえ、基本はCCで結構です。」
「どういうこと?」
「塚田は、あなたがいるビルの1F、アンティークショップの店主です。」
思いがけず、見張られている側を見張るという、想定外の事態となった。私は塚田という人物について詳しく知らされていなかったが、糸田によると公安からの派遣で店主をさせられていることが分かった。供え物を荒らしたのが公安の人間だったからこそ、本庁は無理やり捜査を終了した可能性もある。とはいえ、塚田の行動は把握しておきたい。塚田が精神に異常をきたしていないかも知りたいはずだ。
しかし、公安内部の人間や、本庁の人間が見張れば、塚田ならばすぐに気づくに違いない。よって塚田にとっての見張りの対象者である、私が一番都合が良い。おかしなことになったなぁ…と思いつつ、私は少なからず驚いていた。塚田は、かなり白髪が多い。正直50代だと思っていたのだ。意外にも38歳とは。
ただ、監視しようにも、CCとショップは中でつながっていない。そこで、店を閉めている日に、糸田から業者を手配してもらい、塚田に気づかれないよう監視カメラを仕込んだ。これで店内にいる塚田の様子は、私が毎日確認できる。
問題もあった。塚田は毎日、CCに出入りする人間の指紋認証履歴をチェックしている。私が不用意に出入りして塚田の後をつけたりすれば、行動パターンの変化にたちまち気づいてしまうだろう。そこで私は、ショップ以外での塚田の監視は、那須に任せることにした。塚田が帰宅した時間、出勤のために外に出る時間、休みの日の行動は、すべて那須から報告がきた。
「那須くん、特に変わったところは無い?」
「そうですねぇーきっちりしているというか、無駄がないというか。大体毎日同じ時間に家を出て、帰宅する感じです。休みの日もほとんど外には出てきません。」
「奥さんの姿って見かけた?」
「うん、塚田を送り出す時に玄関先に出てきたり、塚田がショップにいる間にスーパー行ったりしてる。近所づきあいはあんまり無さそうだけど、東京のマンションじゃそんなもんかなと思うし。」
「そう…見た目はどんな人?何歳くらいに見える?」
「優しそうな感じ。30歳くらいかな。働いているかどうかはわからない。今はリモートワークしている可能性もあるからね。」
「もう少しこのまま継続してくれる?」
「了解。あ、そうそう、変わったところってことでもないけど、赤い花、ほらお彼岸の頃に咲く花。あれって家でも飾るもんなのかな?」
「えーーーーっと…なんだっけ。あ、ヒガンバナか。なんで?」
「塚田の奥さん、その赤い花をこの前ゴミ袋いっぱいに詰めて、ゴミ置き場に出したんだよね。ゴミ類が気になってチェックしたらびっくりした。まぁ…どうでもいいことかも?じゃ!また報告いれるね!」
那須は軽快に電話を切った。
ヒガンバナはリコリスとも呼ばれ、日本では秋の彼岸の頃に赤い花が咲く。英語ではレッドスパイシーリリーという花名を持っているが、日本では葬式花や火事花、墓花など不吉な別名も多い。そのため、曼殊沙華と呼ばれることもあり、お釈迦様が法華経を説かれた時に、これを祝して天から降った花のひとつとも言われている。
あぜ道や道端に咲いていることはあるが、確かにあまり家庭内で飾るイメージの無い花だ。それをゴミ袋いっぱいとなれば、小さめの袋だとしても、20本くらいはあるだろう。今はヒガンバナの時期でもないし、確かにちょっと変だ。
塚田はショップにいる間、たまに来る客の相手以外、ほぼ何もしていない。ずっとレジ横のパソコンを見て、キーボードに触ったり、何か打ち込んだりするくらいだ。公安の仕事をしているのかもしれない。
これまで気に留めていなかったが、塚田は割と体格がいい方だ。肩幅もあるし、顔もいかつい。愛想はなく、眉間には深いシワが刻まれていて、それが白髪とあいまって老けて見えるのである。那須の報告によると、奥さんが玄関で送り出す時も、振り返らないし、表情も一切変えないらしい。新婚じゃないとそんなもんなのかしら。私には経験がないから分からないけどさ。
大した結果を出せないまま、監視が2週間過ぎた頃、糸田から電話が来た。
「例の遺棄された骨からDNAが検出できた。火葬した骨からは無理だが、骨の内部に残っている骨髄の造血細胞から検出することができる。見つかった遺骨が少なくて時間がかかったが、塚田のDNAと一致した。」
「ということは、やはり塚田の子供だったと?」
「そういうことになる。しかし塚田夫婦は出生届を出していないんだ。子供は無国籍だな。」
「そんなこと有りえるの?」
「自宅で出産し出生届を出さなければ、有りえる。無国籍の場合、身分証明を作成することは難しいが、児童手当や義務教育は受けられるし、国民健康保険にも入ることができる。その代り、住民票は無いし、運転免許証も無理だな。」
「じゃあ、それが幼児だった場合は…」
「当然、普通に生活できることになる。」
塚田夫婦は、何年か前に子供を授かり、何らかの理由があって出生届を出さなかった。その後、乳幼児は病気や事故、または意図的に命を落とし、その後自宅内など、遠くない場所に置かれていたことになる。白骨化にかかった期間は状況によるが、数ヶ月から数年だろう。塚田または妻が、その骨を公園に遺棄し、塚田本人が供え物を荒らした。事実に基づいてはっきりしているのは以上だ。
「塚田に改めて事情を聴くことになった。同行してくれないか。」
「え?私が?なんでよ。」
「君はこの2週間、塚田の生活を把握している。塚田を連行することになると思うが、私と塚田の家へ行き、気づいたことがあれば教えて欲しい。水野さん、これはお願いじゃない。CCを作り、君を守り、生活を保障していることには費用もかかっている。その分の働きをしてもらいたい。」
「それはそっちが勝手に監視下に置いているだけでしょ!」
思わず言い返した。このまま突っぱねることもできたが、私は塚田の家に興味があった。そして、塚田にまつわる謎の解明にも。好奇心というやつだ。そのせいで、サロン事件(参照「いのちの揺蕩 Vol.1」 )
にも巻き込まれたというのに。
「…行く日が決まったら教えて。」
「今からだ。」
糸田はもう三宿の交差点まで車を回しているという。私は慌ててコートを羽織り、小走りで向かった。コートの内側から、インセンスと百合の香りがした。
(続く)

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【同シリーズの過去作はこちら】
- 「いのちの揺蕩 Vol.1」 https://cherishweb.me/50493
- 「いのちの揺蕩 Vol.2」 https://cherishweb.me/51012
- 「いのちの揺蕩 Vol.3」 https://cherishweb.me/52017
- 「萱草(ワスレグサ)の水辺」 https://cherishweb.me/53111
- 「扇情のイニシエーション~前篇」 https://cherishweb.me/55594
- 「扇情のイニシエーション~後篇」https://cherishweb.me/55911