
水辺の上を漂う夢を見る。周囲には霧が立ち込め、森の静かな精気が満ちている湖畔だ。私は小舟に横たわり、どこへ行く訳でもなく瞳を閉じている。特別な音は何もしない。ただ地球がゆるやかに自転する音だけ。やがて女が現れる。霧に紛れ、表情は見えない。彼女を追いかけ、私は迷いなく入水し、湖の奥まで暗く何も見えないところまで降りてゆく。不意に誰かに足を掴まれ、私は空気を吐き出しながら慌ててばたつく。一歩また一歩と、奥底へ引き込まれる。それと同時にアイリスとマグノリアの香りがどんどん強くなる。
水面に戻れる日が来ても、もう同じ気持ちで小舟に横たわることはできないだろう。そんな気がする。
私がその話を初めて聞いたのは、打合せのために呼び出されたブルーブリックカフェだった。天気が良かったので、ブランケットを貰ってテラス席に座ることになった。一通り仕事の話が終わったところで、仙崎あかねはガレットを食べ終えた口を軽く拭い、「それでね」と続けた。ラグジュアリーブランドのPRを務める彼女は、洗練された雰囲気を持つ美人で、私より5つほど年下だ。
「クラブやBARとも違うんです。お酒を提供している訳じゃなく、通称はサロンって呼ばれているらしくて。基本的には女性はNGで、会員の男性が事前に申請し許可を得た同伴者だけ、女性も入れるそうです。だから私もまだ直接見たことはなくて、あくまで聞いたお話なんですけどね。そこに通っている方は、みんな有力者っていうのかしら、お忍びって感じだそうで。でも、物凄く疲れがとれるらしく、肌ツヤも良くなっていくらしいのです。」
あまりに眉唾物で、思わず私は吹き出しかける。
「おかしなものを飲まされているんじゃないんですよね?」
「最先端の美容医療っていうのかな、そういう類みたいですよ。前野さんも潜入取材に行ってみたらどうです?」
「女性は入れないんでしょ?じゃあ無理じゃない?」
「うちの社長が会員なんです。秘書課の子から聞いたので、同伴できるか聞いてみてもらいましょうか?」
おそらく仙崎は、本当は自分が行ってみたいのだろう。社長に自らねだれば良いのに、プライドが高い彼女は自分から甘えて媚びるのは苦手だ。どこか相手より優位に立ちたいという欲求を隠せないタイプでもある。常に情報は提供者側で居たいのだ。次のアポイントがあるという先崎と別れ、私は表通りからタクシーを拾った。男性だけが元気になって肌ツヤも良くなる秘密の場所。明らかに怪しさしかないじゃない。美容医療なら女性がNGの理由が不明瞭だし。実際に行ってみたらガッカリするというオチは無いだろうか。
冬は日が暮れ始めるのが早い。私はタクシーの窓から暗くなり始めた外の景色を見ながら、もし記事にするならどんな構成にしようか、他に取材に入った方が居るのかなど少しの間は頭を巡らせたが、華やかなパーティー会場に着いた途端忘れていた。この時期は、年内も年始も付き合いが多い。
次に仙崎から連絡が来たのは、翌々週になってからだった。何度も電話が鳴るので、誰かと思ったら仙崎だった。いつも彼女とはメールでしかやり取りをしていないから、番号も登録していなかったくらいだ。
「前野さん、先日お話した件です。そうです、あの女性禁止のサロンのこと。社長が中国出張していたので、確認が遅くなってごめんなさい。同伴できるかはOKとれたんですけど、体験取材とは私言っていないんです。」
「私の事はなんて伝えてあるの?」
「社長の密着取材だって言ってあります。サロンのことは書かないけれど、社長の1週間に密着するから着いていくだけ着いて行かせてって。」
「ちょっと、そんなウソついて大丈夫なんですか?それにサロンのこと書けないなら、行く意味あるのかしら。仙崎さん、あなた何か他に意図があるんじゃない?どんな絵図を描いているのか話してよ。」
電話の向こうで、仙崎が少し息を飲む様子がした。
「前野さん、さすがですね。取材ってけしかけただけじゃ、やっぱりだめでしたか。」
「あなた分かり易いわ。」
「お恥ずかしいです。うまく運べたとばかり思っていました。実は、私の彼、6歳年下なんですけど、同じ会社の営業チームにいたんです。来年結婚しようという話になっていて。」
「あら、おめでとうございます。」
「いえ…、実はその彼が急に会社を辞めてしまいまして、家にも帰っていないみたいで、全く連絡もつかないんです。総務の子に聞いたら、突然辞表が送られてきてそれきりらしくて。彼、ご両親が離婚されていて、お父様もお母様もそれぞれに新しい家庭があるって前に言っていたから、帰るような実家もないはずなんです。」
「それは心配だけど…私の取材とどう関係があるの?」
「彼の行方が分からなくなって1ヶ月経ちます。私もただ待っているだけでは気持ちが収まらなくて、彼が退社する前の行動を探っていました。そうしたら、彼は一時期、社長と一緒に例のサロンへ行っていたことが分かったんです。」
「それいつの話?辞める直前?」
「いえ、もう少し前です。辞表が届いたのは11月末で、社長と行動を共にしていたのは10月頭頃だったと聞いています。」
「”届いた”ってことは、婚約者は自分で辞表を出していない?彼は役職がついているの?」
「そうです、無断欠勤が1週間ほど続いてから郵送されてきたそうです。役職はついていないですけど、何故です?」
「あなたの会社は、誰もが耳にしたことのあるようなブランドでしょう。そんな会社の社長が、一介の営業マンと2人で頻繁に行動を共にするって不思議じゃない。」
「まぁ…それはそうなんですが、社長はフランクで、どんな立場の人も言いたいことがある人はいつでも来なさいっていうタイプなんです。」
「そう、それであなたは私に、同じ場に行ってどんな場所なのか探って欲しいってことなのね。」
「まさにそうです、だますような形になってすみません。」
「大丈夫。でもあなた自身が行かないのは何故?」
「…知りたいと同じくらい怖いんです。他の女性と知り合ったからとか、そんなレベルではない気がして…。いざ真実が目の前に急に現れたら動揺してしまいます。前野さんは以前から肝が据わっているというか、常に冷静ですし。何とかお願いできないでしょうか。」
「わかったわ。今の話聞いたら、サロンを確かめに行ってみたいと思えるようになったし。」
「明後日の夜、社長がサロンに行くらしくて、前野さんご予定はいかがでしょう?」
仙崎は仕事の時より真剣なくらいだ。彼について、社内で調べられることは全て調べたのだろう。しかし嗅ぎまわっていると噂されたら、自分の身に影響が出るかもしれない。
「もう1つだけ確認。何故警察に届けないの?行方不明ってことでしょう?」
「当然届けていますよ。でも、この世の中に行方不明者が何人いると思います?彼は自宅付近のポストから辞表を送って会社を辞めた。会社は探すことなんてしません。警察も、仕事が嫌になって急な辞め方をしてしまったから、バツが悪くてどこかに隠れているのではと言いました。」
「隠れているとあなたは思ってる?」
「最初は、私との結婚が嫌で逃げたのかなとか、他に女がいるのかなとか、そこを疑いましたよ。でも、こんなに何も情報が出てこないのが不思議で…。人間が一人行方知れずになったというのに、調べようがないんです。手がかりが欲しいんです。」
「明後日行ってみるわ。」
社長からメールが届いたのは、仙崎と話した翌日だ。社長自ら送っているのか、秘書が代行しているのかはわからない。私は密着取材を受けていただいたお礼を返事し(といっても本意ではないが)、社長が添えたURLの通り、サロンへ向かうことにした。指定された全身黒色の服を着て。
「え?ここ…?」
私は路地に入る手前で躊躇した。表参道の交差点から1本入った路地。その突き当りを地図は指している。でも、そこには何もあるイメージがなかった。10年以上表参道で仕事をしていて、交差点から1本入っただけだけれど、この道には入ったことが無い。何だか不思議な気がした。
路地の突き当りまで行くと、そこにはフェンスしかない。銀行の裏手にあたるから当然だ。本当にこの場所なのか、地図を再度確認しようとしたとき、私は気づいた。あの匂いだ。夢の中で感じたアイリスとマグノリアの香り。柔らかく、決して強い自己主張はしない。けれど、どこかビターで潮風のような雰囲気と、香木が焚かれたような神秘的な…。どこからかあの匂いがしている。
私は辺りを見回し、その匂いを辿った。フェンスの途中でその匂いは一層強くなった。夕暮れと共に空は闇に包まれつつある。完全に陽が落ちた時、私は気づいた。白いフェンスの中の一画だけ、50cm四方がシルバーに光っていることに。日中の光の中では決して気づかないだろう。また、この香りがしていなければ、注意深く見ることもしなかったかもしれない。
シルバーのフェンスに私は手を伸ばした。すると、そこは急に電子パネルとなり、手のひら型が表示された。ここに手を当てろという意味は分かる。私が右手をそっと押し当てると、同伴者名を記入する画面へ変わった。私は仙崎から聞いていた社長の名前を「IZUMI」とローマ字で入力すると、一切物音を立てずにフェンスが横にズレ、人ひとりがやっと通れるほどの隙間ができた。黒い色の服を着てくる指示がやっとわかった。日が暮れた後の路地の奥で、全身黒色の人間が隙間に入っていったからと誰が気づくだろうか。表参道にいる人々は皆多忙で足早なのだ。

フェンスの隙間から入った私は、そのまま階段を下りて行った。後ろでフェンスが締まり辺りは真っ暗に変わった。ずっと下にはぼんやりと光がある。進むべき道は前しか無い。
階段は意外と長かった。私は何となく数えていたが56段あった。下にたどり着くと、黒いスーツを来た初老の男性が立っていた。一瞬、社長かと思ったが、彼は何も言わず着いてこいというように歩き始めた。辺りには外で感じたのと同じ香りが漂っている。
「前野さま、ようこそいらっしゃいました。泉さんの同伴と伺っております。」
「そうです、よろしくお願いします。」
「少しだけ体験されますか?それともご覧になるイメージでしょうか?」
「体験?」
「同伴でいらした女性は、大抵体験を選ばれます、」
「泉さんはどちらに?」
「現在、入っておられます。」
「入っているってどこに?」
「もちろん、コアの中です。」
そう言って男は、黒く遮光性のある自動扉を開け、フロアの先に向かって手をかざした。途端に、濃い香りが漂い、私はこれ以上近寄るなという警告に思えた。ここは何か異常な場所だ。何かは分からないが、まともな感覚で居られる場所ではない。
私は警戒しながらゆっくりと自動扉の内側へ入って行った。

(次回へ続く)
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