CheRish Brun.|チェリッシュブラン

私のごきげんな毎日

おもかげのフーガ

魔法の香り手帖

「おもかげ」

錆びて傷んだ床が、歩く度に苦しそうに軋む。女は古びたエプロンを外すと、ベタついた手をゆっくりと洗い、子供の頃から住んですっかり古くなった屋敷をしみじみと眺めた。

まだしっかりしている方だと思う。老いても日々の事は何とか1人でも出来るし、近所の施設の子供たちへ毎月差し入れるアップルパイも47年間欠かしていない。使い古した陶器に暖かい珈琲を注ぐ。クローブの匂いを少し足すのは、昔から私の儀式。底が少しだけ欠けているが、自分には相応しい気がしている。

ウッドデッキに籐の椅子を出し、ゆっくりと腰を下ろす。船乗りたちから贈られた魅惑的な花々や、庭に自生したグリーンに囲まれた庭。その向こうに低い石壁、そして砂浜が広がっている。穏やかな朝。

「おもかげ」

庭の向こうの錆びたポストから白い封筒が顏を出しているのにふと気づく。手紙なんて珍しい。世間から逃げるように生きてきた私に。

手に取った瞬間、ドキリとした。ベルガモットやレモン、オスマンサスに林檎、そして潮の匂い。この香りは憶えている。でもまさか…そんなことがあるはずない。

彼は死んだのだから。


どこまでもつづく海岸、母は少女のようにはしゃいでいた。

父が亡くなって以来、世間知らずな母に財産目当てで近づく男たちを排除するのは私の役目だ。必要あれば自分の色白い手足と細い顎、サラサラの黒髪を活用した。17歳の私に男たちを惹きつけ、最高のタイミングを待って母にその姿を露呈させ去らせる。それで解決できた。

彼が初めて我が家にやってきたのは、陽射しが眩しい朝だった。母は嬉しそうに、これからピアノを教えてもらうのよと私に紹介した。

30歳くらいだろうか。長身で細身、肌は浅黒い。ピアニストで売れず、中学で音楽教師をしているという。これまでの筋肉馬鹿たちよりはマシだけれど、頭が良さそうな分手強そうだ。よろしくねと笑顔を見せた眼鏡の奥の目は全く笑っていなかった。彼からは淡い潮のような香りがした。

それから週に3回、彼はピアノを教えに来た。私が夏休みの間は見張ることができる。ダイニングルームから聞こえるたどたどしい母のピアノの音。音がしない時に部屋で何をしているかは分からない。確かなことは週3回で多額のレッスン料を母が渡していることだった。

ある晩、母の言葉で私の使命は決まった。

「彼をピアニストとして支えてあげたいの。そのために学校を辞めさせたわ。海外へ留学させるつもりよ。」

あの男は夢を語って母に恋をさせ、私たちの財産をすべて吸い尽くすつもりだ。やはりあの瞳は信じてはいけない証拠だった。

私は彼に出す焼き菓子に時折、生前パパが使っていた睡眠薬を含ませた。帰りの車で事故を起こして、腕を怪我すればいい。加減が分からなかったが車にも少し細工を試みた。

しかし、なかなか罠の効果は出なかった。薬を盛った日は眠そうにしているけれど、眠ってしまうことはなかった。しかも今日は3人で浜辺に出るはめになってしまった。

海岸の空気に、グリーンシトラスと薔薇の蕾が母から香る。美しい巻髪がゆれて、娘の私から見ても母は魅力的だ。心が汚れていなければ、こんなに風に笑えるのだろうか。大丈夫だよ、ママ。私がちゃんと守ってあげる。

「おもかげ」


気付かないとでも思っているのか。マドレーヌを食べた日はやたらと眠くなった。僕は日頃から睡眠薬を使っているから効き目が弱いのが救いだった。事故を起こさせようとしているのは明らかだが、ガソリンタンクに細工を見つけた時は頭に来た。あの未亡人の周りで不審死が連続しているのは、恐らく夫人ではない、あの娘が原因だろう。

先月岩場で見つかったのは僕の兄だった。テニスで鍛えた美しい身体、優しくて僕の憧れ。泳ぎにも長けた兄が簡単に溺れるはずない。事故死のはずがない。

今のところ夫人は勿論、娘も僕の正体には気づいていない。全てを失わせてやる。証拠を握るため、今は我慢と演技だ。

「留学の準備はどう?」

夫人は僕の腿の上に手を置きながら微笑む。僕に夢中だな、いい気なものだ。

「全てあなたのおかげです。これからもっとピアノと向き合う時間も作るつもりです。」

そう言ってお茶を飲んだ。出過ぎたのか少し苦い気がした。その瞬間、食道がただれるような痛みに襲われ、白い泡が口から噴き出た。薄れていく意識の中で、穏やかに微笑む夫人が見えた。


私が心配なのはあの子のこと。男を信じられない娘が、簡単に結婚できるとは思えない。他に身寄りも居ないし、私が居なくなった後、一人で生きていかねばならない。

若い女と再婚をするから出て行けと言ったあの人も、心臓が弱いから少しの毒で逝ってくれ病死は疑われなかった。私の罪を知っていると脅してきた若い筋肉男は、愚かにも娘に手を出そうとした。私はショックを受けたふりをして、財産を譲るから二人きりで話をしたいとボートで連れ出した。半年後に近づいてきたこの男からは、同じ香りがした。密かに出生を調べるのは簡単だった。

美しい夏の水面、強く煌めく太陽。眼下にあの入り江も見える。ボートの底面が自然と削れ、穴が開く怖ろしい岩場。よそ者は知らずに通って事故に遭ったと判断された。私の計画通りに。

「おもかげ」

50年後のあの子へ手紙を書こう。あなたに罪はないの。今は何も知らないままでいい。ママがちゃんと守ってあげる。明日も何も変わらず、一緒に浜辺でホットサンドを食べましょう。少し潮の味がするかしら。お砂糖をまぶしたレモンピール、バニラの香りの甘い紅茶。ママはピアニストをちゃんと庭に埋めて、彼は留学したと話すの。姿が見えなくなっても疑われないはずよ。あなたが20歳になったら警察に行くわね。でも3人も手にかけて、もう戻ることはできないと思うわ。

水平線へ沈みゆく夕陽を背にして歩く。
潮の香りが髪に絡まる。
強く生きてサリーナ、私のおもかげがあなたを守りますように。

「おもかげ」


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美容ジャーナリスト香水ジャーナリストYUKIRIN
ナチュラルコスメとフレグランスのエキスパートとして、
「香りで選ぶナチュラルスキンケア」や、「香りとメイクのコーディネート」など提案する他、香りから着想される短篇小説を連載中。

媒体での執筆・連載の他、化粧品のディレクション、イベントプロデュース、ブランドコンサルティングなど幅広く活動している。
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