魔法の香り手帖

ビュブロスの神殿

ビュブロスの神殿

叩き付ける強い雨は、御者の黒い影を闇夜に散らす矢のように降り注ぐ。

馬車の窓が音もなく小さく開き、強い眼差しが素早く左右へ動くと閉じた。今にも崩れそうな細くぬかるんだ道を走ってゆく。天は唸りを上げ、今にも稲妻を落としそうに怪しげに光る。石畳に差しかかり、馬はようやく速度を緩めた。

ここまで来れば安心だとばかり、橋を渡り切ると馬車は止まり、黒い外套で顏を覆った人間が数名、神殿の中へ入ってゆく。雷雨の光は暗い神殿の中をも照らし、昼間のようにすら感じた。

ビュブロスの神殿

1人はおもむろに外套を脱ぐと、鋭い角の髪飾りが施された面をゆっくりと持ち上げた。中から輝くような亜麻色の長い髪が零れた。女だ。

「あの者たちは命拾いしたな。」

彼女は静かにそう言うと、外套の上からでは分からない、弾力のあるふくよかな胸元に垂れた水滴を拭った。すると、呪文のように深紅と桃色の無数の花弁が匂い立ち、神殿の白檀の床を煙のように這ってゆく。全ての衣を脱ぎ捨てた彼女は、蝋燭の灯りを手に薔薇とベチパーの甘い蜜を滴らせながら、ベッドに横たわった。

ビュブロスの神殿

「アスタルト様、商人はいかがいたしましょう。」

女と見まごう程細い顎をした長い銀髪の男が、口もとに指を充てながら言葉を発した。外套に刻印された薔薇は、秘密結社の象徴だ。彼の表情は答えを聞かずとも、既に意図を理解しているようにも見えた。

このビュブロスで、眠ったように倒れ重なる女たちが大勢見つかったのは、数日前のことだった。女たちは揃って玉虫色の絹織物を纏っていた。白檀の金色の刺繍、縁取った繻子のようなゼラニウムの葉先、ふくよかな銀色のビロードを彷彿とさせるカルダモンの実。それらはエキゾチックな香りを放ち、その香気ゆえ女たちは頬をほてらせたまま昏睡していた。皆が皆、不思議な程、笑みを浮かべ呆けたまま。

その現場に偶然出くわしたアスタルト率いるローズ・ドゥ・ダマスの一行は、女たちを荷に見せかけそっと馬車で神殿へ運び込み、薬草で意識を取り戻させてから、誰にも見つからぬよう帰らせた。あのままハーレムの外に放っておいたら、野生動物の餌食になっていただろう。

それにしても、人間の本能を操り、意識を混濁させるほどのアフロディズィアック(媚薬)。文明の綾が織りなす香り。アスタルトはそれを誰が何の意図で持ち込んだのか思案した。と同時に「これは使える」と思った。

神の主(あるじ)バールと、海神ヤムの闘いが近づいていた。媚薬の効果は未知数。禁じ手になり得るが、いずれにせよ手に入れねば話にならない。

アル・カシールと名乗る商人が、ハーレムへ姿を見せたのは事件より10日前の事だったらしい。気前が良く、男っぷりもなかなかのもの。大量の酒をふるまい、異国の品々を持ち込み、女たちを悦ばせた。

ビュブロスの神殿

饗宴が何日も続くうち、ハーレムの主人は何か違和感を感じた。それは視線だ。女たちの混沌とした眼差しはどこか異様さを放っていた。そしてひとり、またひとりと、日毎行方をくらまし、彼女たちはひっそりと裏の森の片隅に折り重なっていた。最初に行方不明となった女は下敷きとなり、笑みを浮かべているのに顏は青黒く、命が危ない状態であった。

「アル・カシールの消息は手がかりがない。私はバール様の勝利のため、アフロディズィアックを探すだけだ。」

アスタルトはベッドから腕を伸ばし、銀髪の男の首に絡ませるとジンジャーのように熱い口づけを与えた。肌の上に髪がサラサラと零れ落ち、彼女の高揚した表情を周囲から隠す。愛と残酷の女神。夜が濡れてゆく。

あくる朝、雨の去った澄んだ空、庭園には昨夜の名残りで露が光るミントとローズマリーで溢れていた。小川を流れる微かな水の音、樹から墜ちたオレンジが岩場にひとつ揺れていた。太陽の光を浴び、オレンジはきらびやかに香る。

ビュブロスの神殿

その光景を眺めていたアスタルトはふと思い出す。

昨夜の嵐の中、事件のあったハーレムへ、事情を探りに行った時の事だ。入口で、マントを被った汚れた顏の髭の男とすれ違った。

商人アル・カシールはその場に居合わせた男たちにも皆、酒を振る舞っていたらしく、その男も相伴に預かったひとりだったと言う。絹織物は、ハーレムの女たちが普段より身に着けていたドレスとは袖丈が違い、明らかに異国のデザインであった。男は言っていた。倒れていた女たちが纏っていた衣は「セビリアから流れてきた衣のようだった。」と。

…なぜ、あの男は「アンダルシア地方の土地で着用されている衣」を知っていたのだ?

ハーレムに通うのは、ほとんどがこの街の男。地元の名士が女に囲まれて酒を飲み、羽目を外す場所だ。彼らの産業は地元に根付いており、遠く離れたセビリアの街を訪れたことなどあるはずがない。

…アル・カシールだ。客のふりをして逃げた、あの男こそが。
不思議な程、顏を思い出せない。汚れも髭も計算だろう。印象操作だ。嗚呼!

「マカサー、今すぐアンダルシアへ発とう。いざセビリアへ。」

ひと声で銀髪の男と数人が影のように現れ、薔薇の銀細工が施された短刀を差し出した。絹織物が媚薬に成り得た理由、アル・カシールの目的と正体、こちらの動きを予測しているようにすら見えた。その背後には誰が潜むのだろう。

アスタルトは唇を強く噛みしめながら、庭のローズを1本手折ると耳の上に挿した。それはまるで、新たな冒険への道しるべのようだった。


【掲載製品】
オフィシーヌ・ユニヴェルセル・ビュリー
オー・トリプル(水性香水)
「ローズ・ドゥ・ダマス」75mL ¥16,000+税
「アル・カシール」75mL ¥16,000+税
「ビガラード・ドゥ・セヴィーユ」75mL ¥16,000+税
オフィシーヌ・ユニヴェルセル・ビュリー本店
tel.0120-09-1803
www.buly1803.com

著者プロフィール

YUKIRIN
YUKIRIN美容ジャーナリスト/香りのストーリーテラー
ナチュラルコスメとフレグランスのエキスパートとして、
「香りで選ぶナチュラルスキンケア」や、「香りとメイクのコーディネート」など提案する他、
香りから着想される短篇小説を連載中。

媒体での執筆・連載の他、
化粧品のディレクション、イベントプロデュース、ブランドコンサルティングなど幅広く活動している。

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