CheRish Brun.|チェリッシュブラン

私のごきげんな毎日

あの夏のアンプルシオン

魔法の香り手帖
あの夏のアンプルシオン

こめかみを伝う汗が光を反射し、彼は飛び起きた。まだ朝6時か…頭が少し痛い。
「夢だったのかな…」
口にするとますますそう思えた。大きく欠伸をしながら、癖のある黒髪をくしゃくしゃと掻き混ぜる。子ぎつねのようなフェイスラインに、意志の強そうな黒い瞳と眼差し。背も16歳頃を越えた頃からグンと伸びた。

勉強も運動も一応は…そこそこ得意。クラスでは割とリーダーの役回りが多い。父親の仕事でこの街へ越してきた当時は、東洋人というだけで何かと嫌な思いもしたものだが、馴染んでみれば客観的に見ても、僕は他人から嫌われる要素は少ない気がする。実際、僕の周りに寄って来る人は多い。

馬鹿にしてくる奴はいないが、「真面目だねぇ…」と言われることが多い。そう言われるたび僕は「つまらないヤツ」と言われている気がしてならない。そう、それが僕の最大の悩みだ。自分の中では面白いことも、口に出した途端つまらなく感じてしまうのはなぜだろう。

やるせない想いを抱えながら、夕暮れの路をテヴェレ川に沿って歩く。太陽の余韻をはらんだ風は、伸びやかに通り抜け僕の頬を撫ぜてゆく。

不意に、鼻腔に光のような煌めく香りが突き抜けた。瞬時に僕は急にぼんやりとした感覚に襲われ、無性に香りの源を追いかけたくなった。香りの鳴る方へ幾つか路地を曲がると、急にぽっかりとした白い空間が広がり、そこには大きな向日葵に照らされたが立っていた。まばゆく美しい凜とした姿。圧倒的な存在感。辺りを包むレモンやシトロン、グレープフルーツ、グリーンマンダリンといったシトラスフルーツの香り。

あの夏のアンプルシオン

混濁する意識の中、香りは僕に語りかける。

―誰かを真似なくていい。誰にも憧れなくていい。自分のままでいい。―

溢れる光の中で僕はそのまま気を失った。

そうして目覚めたのは、ベッドの上だった。夢にしては感覚が鋭い。そして僕を包む香りは不思議と消えず、奥底から不思議と自信が湧いてくるのを感じる。

蕩けそうな朝陽と、サイプレスの呼吸。
今夜、気になる彼女に電話してみようか。

夏はまだ始まったばかり。


カヴール橋の下を流れる大きな川。陽が落ちる手前、夕凪が草の間を通り抜けてゆくのが見える。彼女は一人でじっと、その光景に心を投影しながら佇んでいた。日頃、彼女を知る人々から見れば、意外すぎる姿だろう。

あの夏のアンプルシオン

いつも輪の中心に居る騒がしく元気な子。そんな印象は彼女に本当の事を言えなくさせていた。少し前から、両親の喧嘩が絶えない。床下から響く叫び声は日毎に激しさを増し、自分の心が閉じていくように感じていた。両親の前では気づかないそぶりをしている自分も嫌だった。

草叢を通り抜けた風は、大きな香りのうねりとなり、彼女のまつげへ届く。その香りは、月に見守られながら穏やかな海を小舟乗って漂っているような安らぎに満ちている。ベルガモット、マンダリン、ライム、バーベナ、バジルブーケ…。

深呼吸をすると、彼女は暮れた空へ顔を向けた。淡いブルーグレーの瞳に、月は少し光を強める。

―今まで誰にも言えなかったこの気持ちを、誰かに話してみようか。

鞄の中、ふと青白い光が灯る。画面に表示された名は、細い顎先や黒い瞳、騒がしい仲間たちの中で落ち着いて微笑んでいる彼の姿を一瞬で思い出させた。彼ならきっと、いつもと違う私でも、何も言わないだろう。ただ話に耳を傾けて、受け入れてくれるような気がする。

水色の香りが背中を押す。彼女は静かに話し始めた。


精霊のパックは、庭園の植物から採取した香りのエッセンスをボトルに詰めながら、にんまりと満足げに笑った。

祖父から惚れ薬を禁じられ、さてどんな魔法をかけたものかと思案していたところ、「太陽と自信」「夕闇と安らぎ」2つの香りの魔法を創り出すことができた。その結果、淡い恋の予感を感じさせる展開にパックは大興奮だった。

ふと人間の足音が近づく。パックは慌てて香水に姿を変えた。カタカタと小さな音を立てながら、ボトルは自転を止める。

あの夏のアンプルシオン

庭園の主であるマダムは、レモン、オレンジ、フィグなどフルーツを次々に樹皮で出来た籠に入れ、最後にグリーンのボトルを意味ありげにつまみあげると一緒に放りこんだ。キーキーとした声が籠から漏れる。

「夏の気まぐれは精霊たちの魔法ね。」

マダムは艶やかに微笑むと去っていった。


あの夏のアンプルシオン

あの夏のアンプルシオン。
衝撃の後に訪れる、時が止まったような静けさ。やるせない余韻。
だから僕らは待ってしまうんだ。何かが起きるときめく夏を。
そして夏のいいなりになる。


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美容ジャーナリスト香水ジャーナリストYUKIRIN
ナチュラルコスメとフレグランスのエキスパートとして、
「香りで選ぶナチュラルスキンケア」や、「香りとメイクのコーディネート」など提案する他、香りから着想される短篇小説を連載中。

媒体での執筆・連載の他、化粧品のディレクション、イベントプロデュース、ブランドコンサルティングなど幅広く活動している。
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