CheRish Brun.|チェリッシュブラン

私のごきげんな毎日

ベリーベリーベリー

魔法の香り手帖

1

すれ違いざまふと足を止めた彼女の髪から、カシスの香りが立ち昇った。ぴたりと横に立ち、腕と腕の肌がひやりと触れる。

僕たちは他人であり、もう一人の自分。強い絆で結ばれながらも、人前で決して声を交わすことはできない。Secret Lover。何かをする時、ひとりは寂しい。けれど、お互いの存在を感じていれば寂しくはない。

秋は実りの季節と言う。僕らの恋は人知れず、誰にも分からない形で実り続ける。焦がすように焼けつくすような情熱をひた隠して。

アイリスの艶やかな花の香りは、彼女に顏にゆっくりと広がる微笑みに似ている。最近はその微笑みを遠くから眺める機会ですら減ってしまった。黒いボトルをジャケットに仕舞い、彼は歩き出した。彼女が自分の側に居てくれるような気がした。

2


運命的な瞬間を、シュテファン・ツヴァイクは「星の時間」と言った。
私の星の時間は、名前も知らないあの人がトラックで駆け出す瞬間に訪れた。

図書館からの帰り道、本を片手に渡り廊下を歩いていた時、鋭いホイッスルの音に思わず目を向ける。校庭で一人の男の子がかかとをクッと上げスターティングする瞬間だった。弾けるように飛び出す浅黒い素肌は、夏の間ずっと屋外で練習していた自信だろう。汗を飛び散らせながら、深い群青色の目をグッと下に向け、唇を噛んだ。納得がいかないという表情で、スタート地点まで戻ってゆく。悔しげな表情なのに惹きつけられる。風に乗って甘酸っぱい爽やかな香りが鼻をくすぐった。
陸上少年は2年上の先輩だということは分かったものの、しばらくして転校したと噂で聞き、校庭で見かけることもなくなった。

あれから10年の月日が流れ、私は大人になった。平凡な大人だ。
私はなぜか、あの日風に乗って舞った香りが忘れらず香水を纏う。ブラックベリー、ベイリーフ、ベチパー、シダーウッド…想い出の香りにどこか似ている。ノスタルジックな甘い記憶。

3

香りにうっとりとしながら、私は新しい職場へ向かった。
「本日からお世話になります。どうぞよろしくお願いします。」
そう挨拶の言葉を述べゆっくりと顏をあげると、惹きこまれそうな深い群青色の目の男性が立っていた。途端、のどかな放課後の校庭が、昨日のことのように蘇る。
あぁ、星の時間は、続いている。


誰かを愛することは、喜びしか無いと思っていた。
水面に映る2つの影は寄り添う。互いを支え合う影。ぽたりと露が樹木から落ちる度に、水面に広がる輪からカシスとローズの香りが広がってゆく。水辺に映る影…それは香りとなって語りかけてくる。

4

私たちはいつもほんの少しすれ違い続けた。決して重なることは無く。運命の恋は幸せな結末だけではない。
しかし、これも運命なのだろう。苦しさを知って、深い愛を知った。間違いもして、傷つけあった。そして私たちは、それぞれの道を、現実を生きてゆくことにした。
ギュッと掴む手から力が抜け、額を起こし見つめあう。

「手放す準備はもうできている。」

2人が去った後も、寄り添う影は水面に映り続けた。
まるで恋した時間を漂う余韻のように。

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美容ジャーナリスト香水ジャーナリストYUKIRIN
ナチュラルコスメとフレグランスのエキスパートとして、
「香りで選ぶナチュラルスキンケア」や、「香りとメイクのコーディネート」など提案する他、香りから着想される短篇小説を連載中。

媒体での執筆・連載の他、化粧品のディレクション、イベントプロデュース、ブランドコンサルティングなど幅広く活動している。
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