CheRish Brun.|チェリッシュブラン

私のごきげんな毎日

今宵、チュベルーズと踊ろう

魔法の香り手帖

1

その日の彼はずっとそわそわとして、仕事もおぼつかない状態だった。使い古されたエプロンのポケットには、小さく折りたたんだ紙が1枚。何度も読み返しすぎて、シワと手垢が滲んでいる。
「ボケッとつっ立ってんじゃないよ!ほら、お客さんだよ!」
叔母に小突かれて、慌てて花のバケツを床に降ろす。デルフィ二ウムとオンジウムが束になって揺れる。彼は何種もの花を荷台に積み始めた。

市場で叔母の花屋を手伝って1年くらいになるが、街の美しい花屋とはまるで違う。水仕事で手はあかぎれるし、長靴に古びたエプロン。大抵は業者が相手だから、ブーケ作りのロマンティックな作業はなく、学校の友達にもこのことは話していない。

いつも遠くから眺めていた彼女が、校舎ですれ違い際、そっとメモを渡してきたのは先週のことだった。美しく裕福な彼女はいつも誰かに囲まれていて、眩しいけれど自分とは接点が無さすぎた。

メモを開くと、「あなたに聞きたいことがある。来週の金曜の夜、私と川べりを散歩しましょう。」とあった。僕に聞きたいこと?きっと大したことじゃない。きっとただの気まぐれで誘っただけだ。僕のことを好きなのかな?それとも何かの罠なのかな。いやいや、それなら本人がメモを渡すもんか…。疑問が浮かんでは、打ち消される。

パリは今、17時30分。
夏の夜はどこか浮き足立っていて、まだ明るい空にネオンがスパイスのようにキラキラと光り、自分の心が読まれそうで思わず姿勢を正す。
彼女に渡すため、水をしたたらせた月下香の花を鉢から少し拝借した。甘い香りが彼女の髪の香りに似ている。運河の横を通り過ぎると、水面に白と黄色の花々が流れていくのが見えた。次第に濃く香気を放ちながら、夏の夜を淫らに彩る。
まるでNUIT DE TUBEREUSE。

彼女との待ち合わせまであと30分。今夜、僕らの関係は、何か変わるだろうか。


双子の姉妹は、自分たちが何かしたからといって、世界が変わる訳ではないのを知っていた。どれだけ着飾ろうとも、どれだけ我儘を言おうとも、この物語には大して影響はないのだ。
二人は童話の脇役だった。
灰かぶりは、最愛の父を失い、継母の虐待に耐え、動物や自然を味方にして、最終的には魔女の力を借りて王子様と結婚。灰にまみれた白い肌は、汚れを取り除けば当然「美人」で、私たちの母は悪役だ。主役の灰かぶりや、悪の大役を務める母に比べ、私たちはキーキーと口をはさむだけ。

「あぁ、つまらない。」

ガラスの靴にぴったり合う足を探して、王子の従者たちが駆けずり回り、灰かぶりがその細い足を収めるまで、私たちは”どうせ合わない靴”に無理やり気分を高ぶらせて足を入れて”あげている”のだ。
「王子様と結婚できれば歩くことなんて無くなるのよ。靴が合わないなら、かかとやつま先なんて切っておしまい!」と母が口にした時は耳を疑った。いくらなんでも、つま先を切り落としてまで王子と結婚するのは御免だ。主役なんてとうに諦めているというのに。

私たちが本当の姿を現すのは、自分たちの部屋でイストワール・ドゥ・パルファンの香りを纏うとき。チュベルーズは願望と危険な喜びのシンボル。なんて私たちにぴったりなのかしら。

2

私は「VIRGINALE」、昼は甘く翻弄し、夜は別の顏を持つ。
お姉さまは「ANIMALE」、神秘的で官能的な頭の良い人だもの。
私たちは、何が何でも王子と結ばれたいなんて本当は思っていない。自分で選んだ人と舞踏会で踊るつもり。さぁ、扉を開けたら、いつもの道化に徹しましょうか。


ベトナムのトンキン湾に優しく流れる白い湯気のような気流は、彼らの心を穏やかに包み込んでいた。切り立った崖のような岩場を、濃い緑が帽子のように覆い、船や岩の影を抜けて遥か遠くまで青い海が続いている。
夕暮れ時、雲は不自然なほどたなびき、ピンクとグレーが滲む空はどこまでも遠い。水面には天使が水かきをしたような跡が残り、フローティングヴィレッジにひとつひとつ灯りが灯り始める。明日への活力を残したまま船はゆっくりと港へ戻ってゆく。
風に乗ってチュベルーズやオレンジの葉が香り始めると、彼らはそっと立ち上がり身体を寄せ合ったまま、右へ左へゆっくりと揺れる。互いの身体からは「Do Son」が香り立ち、天に向かってそっと舞い上がっていく。

3

2人のこれまでの30年という歩みと、これからの人生に思いを馳せて、そっと目を閉じて踊る。いつまで2人で居られるかしら。いつかはどちらが見送るのかしら。
切ない不安を、今生きている喜びに変えて、この香りを忘れないと誓う。

今宵、チュベルーズと踊ろう。
ときめきも、諦めも、愛する日々も、すべては輪廻。

【掲載製品】
■L’Artisan Parfumeur 「NUIT DE TUBEREUSE」 100ml ¥23,000+税 / ラルチザン パフュームtel.03-3237-6756
イストワール・ドゥ・パルファン 「TUBÉREUSES 2 – VIRGINALE」、「TUBÉREUSES 3 – ANIMALE」 各120ml ¥19,000+税 / 株式会社ドゥーブルアッシュ tel.03-6427-2369
■diptyque「DO SON EAU DE TOILETTE」100ml ¥10,900+税/ diptyque japan tel.03-6450-5735

美容ジャーナリスト香水ジャーナリストYUKIRIN
ナチュラルコスメとフレグランスのエキスパートとして、
「香りで選ぶナチュラルスキンケア」や、「香りとメイクのコーディネート」など提案する他、香りから着想される短篇小説を連載中。

媒体での執筆・連載の他、化粧品のディレクション、イベントプロデュース、ブランドコンサルティングなど幅広く活動している。
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